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かみしちけん
 “町屋(まちや)”という京都の名物建築がある。秀吉が聚楽第を構えた頃、京都市民に対して課税する際に家の間口(道に面した入り口のある正面側の幅)を基準にその金額を決めた。つまり家屋敷のかまえが大きな家ほど課税対象になるということだ。

 ここまではよくある話だが、京の商人のしたたかさはこんなことではめげなかったことだ。つまり、間口が広いために損をするのなら敷地面積がどうであろうと間口さえ狭ければいいのだろうと、近所のみんなで相談してそれぞれの家そのものをとてつもなく奥に長い家に建て直して、まるで櫛の歯がならんでいるかのような並び方にすることで“狭い間口の家々”を実現し、見事な区画整理をしてしまったのである。

 しかもこの“うなぎの寝床”と呼ばれる家には途中に広い中庭もあればさまざまな設備もあり、これが商家の場合奥にゆくほど旦那さんや女将さんなど家の偉い人が住む部屋になり、調度品も役人の目を盗むように高級な物になってゆくのだそうである。

 昔のことで人件費や建築費用そのものが安かったのかも知れないが、それにしてもやることが徹底している。時の権力なんかには翻弄されないぞという反骨精神にあふれている話だ。

 とはいえ、時の施政者だった豊臣秀吉もこうした住民の抵抗に対してむしろ天晴れと思ったのか、はたまた京童らを敵に廻すとウルサイと悟ったのか、これに代わる課税対策を仕掛けたりしなかったことは、さすが商人魂を持った太っ腹で粋な政治家だったわけだ。


 もっとも、山城(やましろ)の国に都が開かれて以来、京都ほど内的な権力闘争の度にとばっちりで戦火に見舞われた都会は世界的にも少ないだろう。
 ところがその度に以前以上のスケールで復活し、結果的に1200年の都はちゃっかり新旧織りまぜた姿で21世紀まで生き延びた。
 きっとあと数百年経って、空中にエアカーが飛び回ろうが火星に人が移り住もうが、ここはこんな調子のまんまなのではないかと思う。
 前説がながくなったが、ここ、上七軒はそんな町屋作りがたちならぶ“お茶屋さん”の通りである。舞妓さんや芸妓さんをあっせんしてくれるところと、宴の催される店“お茶屋さん”が相手の仕出屋さんがほとんどであるので昼間はあまり人通りのない普通の“古い街並み”だが、それはそれでなんともえいない風情がある。

 夏の昼下がりなどは、どこかで啼く蝉の声、風鈴のささやかな音色につられて眩しさをこらえつつ頭を上げてみると目に入るのはよしずのゆれる二階の軒先。まるで昔の古き良き日本映画のワンシーンでも観ているような雰囲気だ。


 おもしろいことに上七軒には和のお店ばかりでなく素敵な洋菓子の店やブティックなどもあるのだが、これもちゃんと街並みにとけこんでまったく違和感がない。もちろん、超一流どころに出すおつかいものに最適な高級和菓子の老舗もある。

 普通なら和洋折衷といってもどこかアンバランスでどっちつかずな違和感がただようものになりがちなのだが、京都のこういったところにある店は、たとえ喫茶店でもケーキ屋でも不思議と京都でしかお目にかかれない、“京”ならではの店になってしまっているところがすごい。

 これもいにしえより存在する京都の魔力なのだろう。
 外国産のものがいくらがんばったところで、ラテンチックな物でさえ、ここにくると“京風”という“和”の亜流に吸収されてしまう。

 京という都のふところの深さというべきか、すべてをとりこみながらも結局自分の文化にしてしまう貪欲さというべきか。
 逆になにをしても洋風になってしまう神戸や、なんでも泥臭くなってしまう大阪とは見事な好対照である。

 私は北野天満宮に詣でたあとは必ずここを通る。遠回りしてでも通る。ことに日の暮れる頃になると、仕出屋さんの店の中からは活気に満ちた板前さんの声が聞こえる。同時に朝早くから仕込んでおいた材料を使って料理に取りかかって、軒先からはえも言えぬ旨そうな香りが漂ってきて、家々の独特なデザインの提灯には灯がともりはじめる。そんな夕暮れ時の上七軒はたまらなく好きだ。
 ただし、休日平日の差なく車の往来が多いので、うっかり美しく懐かしい風景にうっとりと浸りすぎないように。


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