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くぎぬきじぞう

 京都はやはり“寺社の街”である。なかでも最大の特徴とも言えるのが街に生きる人々の生活に密着していることだろう。もちろん、他の地方でも寺社は敬いの対象であり、土地のひとびとの憩いの場であることに違いない。しかし京都の寺社はなんとなくニュアンスが違うように思う。というのは、たしかに敬いの対象ではあるが、それは“もったいないものをありがたく仰ぎたてまつる”というよりは“同じ目線で眺めながら心の中では尊ぶ”という、むしろ祖父祖母に対する孫のような気持ちではないか、と感じるのだ。
 ここらへんが戦国の昔からの、日本ならではの宗教観に通じるものがあるような気がする。本来日本の神様はどこにでもいるほど身近で、しかも大勢いて、気軽に願いも聴いてくれればバチも当てるのである。
 同様に仏様もパーソナルレベルで困ったときに(ささやかではあるが)心の支えになってくれる。そんな神様仏様のいる寺社に京都の人々は本当に自然に何気なく立ち寄って行く。いわば、京の街っ子は神様仏様と一緒に生活しているというイメージがピッタリなのだ。

 そしてここ京都には、お客様?のニーズにあった多種多様な神様仏様がおられる。

 ここ西陣・千本通りは寺の内と呼ばれるあたりに、昔から「千本の釘抜きさん」と呼ばれる地蔵堂がある。地蔵堂と言ってもかわいらしい祠(ほこら)ひとつがぽつんとあるわけではなく、こざっぱりとした立派な境内が備わった立派なお寺である。
 それもそのはず、“釘抜きさん”は通称で、石像寺(せきぞうじ)が本名。じつはお地蔵さんで知られるあの可愛い姿はかの閻魔(えんま)大王の仮の姿だというのをご存じだろうか?閻魔様は地獄の裁判官といったイメージがあるが、本来は人間の煩悩や罪の深さを測るほかに、そんな哀れな人間を土壇場で救ってやろうとするお姿が地蔵菩薩であり、そんな哀れみ深い神様(仏様?)が閻魔様なのだ。
───というわけで、ここにおられる“お地蔵様”は立派なつくりである。
 しかし何よりも初めての参拝者を驚かせるのは、境内入り口真っ正面に置かれた巨大な釘抜きのオブジェ。

 そして本堂の壁面をびっしりと被う、額装された釘抜き&デカい釘のセット。よく見るとそれぞれ“御礼”、そして日付と名前、年齢が墨で墨痕も鮮やかに書かれている。つまり、他の寺社で言うところの絵馬に当たるのがこれ。

 なんでも、昔西陣に住まっていた商人が両腕に激痛を覚えて動かなくなってしまったので、こちらのお地蔵様に願を掛け続けたところ、満願の日に夢枕にお地蔵様が立ったとか。

 いわく「おまえは前世で人を呪ってわら人形に釘を打ち込んだが為に今その報いを受けているのだ」とおっしゃって血だらけの釘を二本差しだし、「…だがこうして私が抜いてやったからもう大丈夫だ」と言われたところで目が覚めた。痛みはウソのように消え、身体は元に戻ったとか。

 以来、この石像寺は釘抜きさんと呼ばれ、訪れる人々は痛みのある患部から“釘”を抜いてくださいと願い、願いが叶うとみなくだんのセットを奉納してお礼とするのだ。壁面いっぱいの額はその霊験のあらたかさを示すものだ。訊けば、古いものから交換してゆくのだという。

 この日も茶髪の若い女性が真剣にお百度を踏んでいた。なにとぞその想いが叶うことを祈る。

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