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おたぎねんぶつじ
 この記事は新規でも追記ではなく、『ぶら旅』始まって以来の大々的なリライトである。
 ここ愛宕念仏寺を十数年ぶりに訪れて最初に口を突いて出た言葉は、「ええっ、寺もリニューアルて、すんのかいな!」だった。
 とにかく驚いた。というのも、13年ぶりに訪れたのだが、その立派ななりように、当初地図の見間違いか、はたまた記憶違いかと思った程である。

 もちろん変わってない所もあった。
 このコンテンツ『ぶら旅』の母体である『TOMZONE-S SHOW』を始めたのは2001年。
『愛宕念仏寺』はその折最初にこしらえた数ページのうちのひとつなのだが、その時使った右の写真は1996年春に撮影したもの。左が2008年だ。
 青々とした苔の生え方が13年もの年月を語っているが、正直どれがどれか、写真を見ても判らないので本当に同じものなのか自信はない。


 筆者が2001年当時に書いた最初の記事には、『毎年お盆の頃になると、必ずといっていいほど近畿ローカルニュースのバラエティコーナーでは、嵯峨野の北はずれにある“化野(あだしの)念仏寺”で、無数に並ぶ小さな石仏にロウソクを灯す幽玄な風景が紹介される。だが、さらに清滝方面まで足を伸ばして登っていったところにある、愛宕念仏寺を知るヒトは少ない』と記している。
 さらに、『この写真を撮っていたときのこと、突然若い茶髪のカップルが筆者に「けのねんぶつじはドコですか」と関東訛りで訊ねられて、一瞬なんのことか判らずにしばらく考え込んだ。
 「けの?けの…?…ああ、化野(あだしの)のことですね!」と切り返した筆者に今度はカップルの二人がキョトン。「けの、と書いて“あだしの”と読むんですよ」と説いても、どこか納得できない、という顔だったのが印象深かった。』
とある。実際、その頃は徒歩の客は化野までで引き返し、クルマを持つ人はさっさと三尾(高雄、槙尾、栂尾)の方へ走り去るというパターンが多かったように思う。
 だからそこで一般客に会う事自体が驚いた。敷地の奥には管理される住職などが住まっておられるにしても、よもや拝観を許可している寺だとは考えもしなかった。
 今ならネットを通じてウィキなりで由来やイベントさえも調べられるが、当時『愛宕念仏寺』を検索したところでヒットするのはこの『ぶら旅』の該当ページしかなく、「役にたたん」と苦笑した覚えがある。

 しかし今ではうってかわって、ずいぶんメジャーになったということだろう。訪れたのは山門を閉ざす16時も寸前だったにもかかわらず、筆者の他にも数組の観光客が居たのである。
 それにしても記憶にある寺とは別物としか思えないほどに立派な寺になっていた。山門前の道も微妙に立体化していて、地図で確認していなかったらこの場所だとは気づかずに通り過ぎていただろう。

 見違えるとはまさにこの事で、13年前も母と同行していたのだが、寺名を見たうえで山門をくぐり拝観料を払った時点でさえ、その母も「こんなとこ知らん。これは違うお寺やで」と断言したほどである。
 それこそ今ネットで調べてみると様々な情報がヒットし、そのいくつかには「1991年に1200体の羅漢さんが揃ったことで大々的に法要が営まれた」とある。これも驚きだった。筆者が訪れた1996年頃はすでに良い感じにひなびて落ち着いた良い雰囲気の山寺…という印象だったからだ。

 そしてなにより、この立派な山門。塗り替えたばかりの寺社も多く見ているが、これはほんの近年に新築成ったものだと思われる。
 もちろん1996年に訪れた時に上の写真のように苔むした味わい深い羅漢さんがズラリと並んでいたことに感激したわけたが、これらズラリと居並んだ羅漢さんは道路に面してあるワケではない。この山門をくぐり、古びた石段を登った先の境内の開けた場所に石垣よろしく並べられているのである。

 ところが、どう考えても13年前は拝観料を払って入ったという記憶がないのだ。
 まるで神社の境内のように普通にずんずんとこの場所まで入って行けた覚えしかない。ましてその時は資料もなかったので、まさか1200体もあるとは思わなかった。
 羅漢さんといえば“五百体”だと勝手に思い込んでいたせいもあるが…

 ただ筆者は今も昔もあまり物覚えは良くないが、これだけは言える。いまあるような立派な山門や社務所があればまさかこんな所までズカズカと入れた筈もなく、入った以上は観られるだけ観まくっていたはずだ。
 まして拝観料を払っていれば、このまるでコンサートホールかコロッセオの観客のように羅漢さんが放射状にい並ぶ、印象的な光景を観ずに済ますこともありえない。しかも昔訪れた時は昼下がりで、閉門時間を気にする必要もなかったから、これは勝手な想像だが、おそらくは当時ここまでは入れないようになっていたのではないか…と思われる。たしかに記憶はアテにならないが、シャッター一回のフィルム単価が掛かる時代だったとはいえ、このような奇観を一枚も撮影しないままで立ち去ることはありえない。


 ほかにもこんな一風変わったスタイルの鐘楼もあった。鐘楼といっても黒い釣り鐘がひとつぶらさがった一般的な寺院の排他的なそれとは異なり、金色に輝き、小さめで細長く軽やかな音色の鐘は参道の途中に参道とツライチに設置されており、しかも誰でも突く事ができる。
 突くといっても撞木ではなく、三つの鐘の中央にゴーダチーズのような形状をしたものが下げられているユニークな格好で、ひもを持って降るというやりかたで突くのだが、三つの鐘はご覧のように離れているため、連続して三つをうまく鳴らすのは結構難しい。
 これは山門を入り、羅漢さんが点在する石段を上がりきった所にあって、最初に出くわすように配置されているのだが、女性客と比べていただくと羅漢さんが意外に大きい事が判っていただけると思う。
 上の写真左上に清水寺のヤグラのような土台が見える。これが本堂で、入り口にあった高札の説明によると中には本尊の千手観音様が安置されているのだそうだ。
 そしてその右に見える小さなお堂も観音堂で、こちらは常に開放されている。その中には『ふれ愛観音』と名付けられた観音様がおられて、上方は笑福亭の某有名落語家が昔ふくよかに太っていた頃によく似た風貌におもわず近寄ったが、独特の風貌とはいえ、なんとも雰囲気のある仏様である。
 そばに掛けられた板に味のある文字で「コノ観音様ハ手デ触レラレルコトヲ喜ンデクダサル仏サマデス(中略)……」と、触れる事で願を掛けると、触れられた場所に関しての願い事をさまざまに聞いてくださる、との触書がされているとおり、すでに表面の金箔はかなり剥げて、いわゆる日本の仏様らしい色つやになられてきていた。
 その背後をはじめ、小さなお堂の中にはなんとも微笑ましい観音様の絵馬がたくさん掛けられていた。
 それにしても派手である。筆者も母も、「愛宕念仏寺はひなびた山寺だった」という印象が強いため、鐘楼といい観音堂といい、ある意味“宗教的アミューズメントパーク”になっている事に驚かざるを得ない。

 さきのコロセウムの写真で、広場の中央にも小さなお堂が据えられているのをご覧頂けたと思うが、その中には“ふれ愛観音”と同じ仏師の手になると思われるデザインで着色バージョンの石仏や、その前には金色に輝く観音様が立っている。
 しかも観音様はコロセウムの上の方にももう一体あるのだ。

 境内にズラリと並ぶ苔むした羅漢さんたちを見て、ようやく同じ寺だった事を確認できたが、それでも当時、それ以外の羅漢さんもここまで立体的な配置が成されていただろうかと記憶を疑わずにいられない。
 改めて写真を観ていると、重要文化財という本堂はともかく、観音様もお堂も、社務所や山門同様に真新しい。もしかしたら羅漢さんたちも、あらためて並べ直したとかもあり得るのだろうか。

 羅漢さんたちだけはどれも苔むし、古びた雰囲気はほぼどれも同じくらいで特に新しい羅漢さんが加わっている様子はない。
 なんとも気になって仕方ないが、この撮影の時ももう陽は山端に沈みかけて夕闇が押し寄せかける拝観時間ギリギリで、社務所におられた方もなんとなくソワソワと仕舞いたそうだったため、インタビューは諦めた。
 ならば、と電話で確認すればいいのだろうが、雑誌の取材でもないのに…と思うとそこまで手間やご迷惑をかけたくないし、まさか「いつリニューアルされたのですか」と訊ねるのも無礼なので、結局未確認のままだ。どなたか顛末をご存じの方はブログの受け付けにコメントをもってお教えください。


 ───実は、前回は嵯峨野からえっちらおっちらと昇ってきてここに至った。
 しかし今回は三尾…つまり高尾、栂尾、槙尾から歩いて下ってきてここに至るというコースを採っている。
 そのコースもあまり一般的ではなく、筆者のように変わり種を好む方にはそれなりに面白いと思うので、興味を持たれた方はそちらもご覧願いたい。
 行きはバス利用、あとは下るばかりだが、途中は東海自然歩道をしばらく歩くのでそれなりに足固めはされたほうがよい。また、それなりに時間もかかるので記事を参考にされたし。→ 『高雄から横道で嵯峨まで 栂尾〜嵯峨野』

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