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なすありじぞう

 ここしばらくこのコンテンツで紹介したものをながめると、まあまあマイナーな路線をたどれているようだ。今回紹介する『なすあり地蔵』はその中でも最たるもののひとつだと思う。
 京都には運河というには浅く、小川と呼ぶには整えられすぎた独特の川が多くある。四条大橋のやや北側から鴨川へそそぐ白川(しらかわ)もそのひとつだ。

 はるか比叡山に源を発し、銀閣寺のあたりでかの“哲学の道”と並行に流れる琵琶湖疎水の上を交わることなく(!)流れ、白川通りに沿って南下し、こんどは京都市動物園あたりでインクラインから流れてきた別ルートの疎水とはじめて一緒になり、そこから平安神宮や近代美術館、京都市美術館の南側に寄り道したあとは疎水と分かれてふらりと南西へ斜めに流れて骨董の町である新門前町と並行に流れ、祇園をカギ型に横切って鴨川に注ぐ。

 白川通りは両側にオシャレ系の店の並んだ、南北3km弱におよぶ通りとして知られている。しかしここで紹介する白川北通りは鴨川近くで先に書いた骨董の町“新門前町”と並行に走る東西わずか220mほどの小径である。
▲桜満開! 春の“なすあり地蔵”(2003年4月6日撮影)

 ここは98年にそれまで一般的な歩道だったのを、住民の切なる要望で天然石を敷き詰めた美しい散策路にしたもの。なにせ祇園が近い上に知恩院方面へのアクセスロードだったために、心ない観光客のポイ捨てなども絶えなかったとか。
 ともあれ、春は桜、初夏からは美しくそよぐ柳が出迎えてくれる、なんとも情緒豊かな川沿いの散歩道がこの白川北通りである。

 さて表題の『なすあり地蔵』だが、この白川北通りはもともと東大路通りをはさんで知恩院黒門まで続く500mほどの道で、その西半分を98年の改修以来『なすありの径(みち)』と名付けたそうだ。

 このあたりの地名でもあるらしいが、その由来は明治12年に当時の府知事が中国の歴史書からの引用で“必有忍其乃有済…必ず忍ぶことあれば其れすなわち済す有り”…辛抱して努力すれば事は成る、という言葉から付けたものだという。(ちなみにこの通の西詰めにある橋は有済橋“なすありばし”という)

▲同じ位置から撮影した初夏の“なすあり地蔵”(2001年5月4日撮影)
 
▲近隣の住民の努力で美しく維持されている

 そんな故事を象徴するかのようにあるのが、有済橋の近くに設けられた小さなお堂のお地蔵さんである。

 最初筆者はこのお地蔵さんが昔から此処にあったので、有済(なすあり)の名になったのかと思っていたが事実は逆だった。
 実は昭和29年(1954年)に有済橋がかかる花見小路通りの水道管工事の際に白川の川底から出土したのがこのお地蔵さんで、名も由来も判らないが、数百年は経ったかなり古いものらしい。まさに、土中でじっと耐えること数百年だったわけだ。結局当時この工事を請け負った中村幸太郎さんという方が八坂の四若神輿会にかけあってこのお堂を建てるに至ったということである。
 失礼を承知で中を覗くとかわいらしいお地蔵様がいらっしゃる。小さなお姿だが、かえってそれがこの清楚な小径によくマッチしているように思える。

▲なすあり地蔵から東へ200mほど続く白川北通り
 光のこぼれる季節、もしもこの小径を通ることがあったらぜひ一度はお参りし、その忍耐と成功にあやかっていただきたいものである。

 *なお、この記事を書くにあたっては、なすあり地蔵さまのかたわらに綴じて吊してありました、梶原慶三様(なすあり地蔵菩薩信者有志代表)作成によるプリントから多大に引用させていただきました。


▼なすあり地蔵付近の地図はこちらから▼