毎回感じることだが、明治時代のネーミングセンスというのはどうしてこうも粋なのだろうか。もし現代にこうした建造物ができたとして、果たして漢字語式の名前など誰が考えるだろうか。また考えたとしても絶対にこういう格好良いものは考えつかない。
水路閣は琵琶湖疎水という、琵琶湖と京都の間に立ちはだかる山々をぶちぬいて流れる長大な運河にしつらえられた水道橋である。
記録によると、第三代京都府知事の北垣国道氏が首都機能移転後の京都を復興させようと維新以来の京都府政の宿願だった琵琶湖疎水計画を実行に移したとある。
明治14年当時、京都の水脈はもっぱら地下水か、北方の山々に流れを発する川しかなかった。しかしいずれも急流でもなければ豊富な水量でもなかった。
しかし山をいくつか越えれば、日本最大の湖・琵琶湖がある。そこで考えられた手段は、なんといくつもの山をぶちぬいて長大な水路を造ろうというものだった。
それは滋賀県の大津市は三井寺の近くから長等山にトンネルをぶち抜いて水路を確保し、山科盆地の山々を同じように幾つもの トンネルをうがち、さらに日ノ岡山のトンネル…とまるで新幹線の開通工事のように掘って掘って掘りまくるものだった。そのなかでも長等山の第一トンネル(2,436m)は当時類をみない長大トンネルである。
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