義政の祖父であり、一説では時の天皇に取って代わろうとさえ目論んだと言われる野望家、足利三代将軍・義満の造った金閣は、デザインこそシンプルだが装飾の材料は贅を極めた、まさに存在そのものが政治権力・財力の象徴の“産物”だった。
それに対して銀閣は、政治的にはな〜んもやる気がなかったような趣味人・義政の純粋な芸術的意図で生み出された“作品”といえる。予算のこともあるのかも知れないが、どっしりした金閣に対して瀟洒(しょうしゃ)な銀閣はこのおよそ百年のちに活躍する千利休の口を借りればまさに“詫び寂び”なデザインセンス。
───ウィキペディアによると、じつは銀閣寺を絵はがき風アングルでの撮影の際には、必ずと言っていいほど写し込むお定まりの“向月台”と呼ばれるプリン型の砂盛と、それをとりまく枯山水もどきの“銀沙灘”というものがあるが、じつはふたつとも義政の意図したものではなく、江戸時代後期あたりに付け加えられたものらしい。
もともとは後年銀閣と呼ばれている観音殿と、東求堂(とうぐどう…右写真上の大きな建物)があり、さらに今は失われてしまった東山殿とよばれるかなりの規模の建築物もあったらしい。