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さがの てんびょう |
♪京都嵯峨野に吹く風は───女性デュオ“タンポポ”が歌うニューフォークの名曲『嵯峨野さやさや』の出だしである。
ニューフォークという楽曲ジャンルも今では死語みたいなものだが、この曲がヒットしまくっていた頃を知らない世代でも、CMソングとしてごく最近まで使われていたために“嵯峨野”と聞くとこのメロディを連想する方も多いのではないか。
残念ながらそのスポンサーがいろいろと問題を起こしてくれたおかげでこの数年でとんと耳にしなくなったが、伊藤アキラ作詞、小林亜星作曲の名曲は京都をテーマとした傑作のひとつには違いない。
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ところでこの曲に登場する嵯峨野のスポット『落柿舎(らくししゃ)』『祇王寺(ぎおうじ)』『直指庵(じきしあん)』のいずれも筆者は訪れた事がない。筆者が初めて嵯峨野を訪れた1980年頃も、今ほどではないにせよやはりぞろぞろ歩きの観光客でごったがえしていた。
曲が発表されたのは1975年なのだが、当時の若き女性達にとって旅行情報のソースとして最も有力だったと思われる二大ファッション誌『an・an(1970年創刊)』『non-no(1971年創刊)』によって触発された娘さんたちが、これまた当時の国鉄のキャンペーンにのっかり、女性同士数人で連れ立って日本中の観光スポットを席巻した(当時彼女らは“アンノン族”と呼ばれたhttp://ja.wikipedia.org/wiki/アンノン族)のがまさにその頃あたりからだった。
京都フリークがそうであるように、一度訪れるとたいていハマる。リピーターになる。
当然、深夜ラジオ全盛の当時に流行した『嵯峨野さやさや』に出てくるスポットは両誌に特集されたはずだが、あいにく情報源が限られているのでコースも行く先もカブる。結果的に局所的なラッシュ状態になると言うわけだ。
余談だが、さだまさし氏が故郷長崎のオランダ坂を歌った『絵はがき坂(1976年暮)』には
♪同じようにジーンズ着て アンアン、ノンノかかえた 若いお嬢さんたちが今シャッターを切った♪
という詞がある。当時を知っている世代には今でもありありと目に浮かんでくるほどよくある光景だった。
一年を通して嵯峨野は美しいが、筆者にはやはり春の嵯峨野がもっともそのイメージに沿っているように思える。
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田には菜の花や蓮華草、道ばたには素朴な野の花が咲きみだれ、蝶や蜂が舞い、土手に土筆(つくし)が顔を出す。
それにしても昔の人のネーミングセンスは考えれば考えるほど感心する。
つくし、という名前がどういう由来かは知らないが、文字としてこれを“土の筆”と記す感覚は、果たして現代にコレを新発見したとして誰が考えつくだろうか。
ほかの方はどう考えられるかはともかくも、「京都でハイキングする」という言葉から筆者が連想するのは嵯峨野の風景である。田園風景では大原がたぶん一番のハズだがいかんせんそこまでゆくのが大変だ。
気軽に行けるという意味では修学院のあたりもえも言えぬ雰囲気だし、八瀬や宇治もいいのだが、いかんせん筆者の頭にこれらのエリアはハイキングコースとしてはキイワード登録されていないのである。
嵯峨野がハイキングコース的いこいのゾーンだったのは現代に始まった話ではなく、平安の昔から貴族たちの別荘地というか、都会の喧噪や日々の仕事ストレスから逃れるために心の休息を求めて訪れた地だったようだ。
といってももちろん交通手段は牛車か馬、しかも道はないに等しい時代だ。おまけに今と違ってどんな危険な獣や盗賊が出るかも判らない。
しかもである。今に比べたら日本中どこへ行っても田園風景みたいなものだったはずなのに、それでも貴族たちは苦心してえっちらおっちらと嵯峨野を目指したのである。
それほどに嵯峨野には訪れたくなるだけの魅力があった、という事だろう。
だからこそ、たとえいっとき下品なタレントショップがのさばろうとも、お土産屋さんがやりすぎなくらいミョーな近代化をしかけても、『都会人が望むひなびた田園ふうの風景』というコンセプトが1200年ものあいだ貫かれたおかげで今の嵯峨野があるのだと思う。
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筆者がここを訪れたのは4月の5日。近畿ではすでに桜も盛りを過ぎて散り始め、春は最初の衣を脱ぎ捨て、これから初夏へ移り変わろうかという時である。
そんな頃になると初春の恩恵のひとつである土筆に出逢っても、すでに“長(た)けて”いて胞子嚢が開いて食用には適さない。むしろ隣にはスギナが顔を出し始めている頃だ。
いわば完全に“遅きに失した”状態だが、実はここだけの話、探しようもあるのである。
土筆というのはそれまでの寒さに耐え、パアッと温かい陽や空気に遭遇すると一気に伸びるわけなので、要するにそういう目に遭わない場所を探すと、時期のずれた土筆が見つかるのである。
詳しく書いてしまうとコツもなにもあったものでないので、以上をヒントの全てとしたい。
かくして、筆者は半月以上旬からはずれた時期に出向いてしっかり“いい具合の”土筆を充分な量だけ採取できた。
あとは一所懸命に袴の掃除をし、甘辛く煮付けてもらって次の日ステキな酒の肴となる。
ひところ土筆には発がん性物質がどうのこうのと取り沙汰されたこともあった記憶があるが、ガンが発生するくらい大量に土筆が食えるもんならたいしたもんである。
風流でささやかな土筆の佃煮よりも、毎日の通勤路で無理矢理吸わされる歩き煙草の被害の方がよほどガンのもとでないだろうか。
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ところで、筆者も意外だったのだが、この広沢の池の西に拡がる田園がくせものなのである。
いうなれば『塀や壁のないラビリンス』なのだ。というのは、当然ながら田も畑も作物が植わっているためにずかずかと横断するわけにはいかないだけでなく、意外なところに用水があったりして前へ進めないので、当然あぜ道をクネクネと辿って目的地を目指す事になるのだが、これが皆目先が読めない。
写真をご覧戴きたい。右先の方に開けているところに広沢の池がある筈なのであるが、目線で辿ってもうまい具合にちょっとした建物や樹々が邪魔をして、そこに至る道がどこへどう繋がっているのか、下手したら行き止まりなのか、それ以前に道そのものが畑にフェードアウトしてたりして、自分が立っている場所からは判断できないのである。
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なだらかに下っているのでぶっつけ本番で適当に道を選んで歩いてみても、いつのまにか全然異なる方角を向かされていてあ然とする事数回。のどかな春の陽射しの下、完璧とも言える迷路がこんなところに仕掛けてあったとは。
たまたま農作業をされている方に「恥ずかしながら…」と行き方を尋ねると、仕事の手を止めて親切丁寧に教えてくださるのだが、歩き出してみるといつのまにかまた迷っている事に気づく。
しかも、である。さきほど道を尋ねた方はこちらからもまだシッカリ見える距離に居られるのである。なのに、今来た道も、下手したらもう戻り方さえよく解らないほど地面に紛れてしまっている。
もちろん他にも地元の方らしき人が先を歩いてるので、それを目指して行こうとするのだが、まるで化かされているかのようにその人たちはサッサと遠くへ消えてゆくのである。
まさか「待って!待ってくださ〜い!」とは叫べない。この明るい春の太陽の下、見晴らし良すぎる環境で、いくらなんでも、叫べない。このラビリンスは『恥』という精神的な縛りまで用意しているのである。完璧だ。
次回、ここへ挑むときはGoogleの地図ではなく、航空写真をプリントアウトして持参すれば良いのかも知れないと思った。
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そんなこんなで大変な遠回りをした気分でやっとたどり着いたのが、ゴールというわけではないが、広沢の池である。肝心の事を書かずに最後まで来てしまったが、今回歩いたのは直指庵から大沢の池までの田園地帯だ。
詳しくは下のGoogleマップのリンクを…と言いたいところだが、先のような事情なのでどこをどう歩いたかは今以て解らない。ただ、地図に描かれたあたりをうろうろと彷徨った…というところであるが、おかげで旨い春の山菜にもありつけたし、日常では絶対得られない空気をいっぱい吸えたことは何よりの大収穫と言える。
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▼嵯峨野広沢池近辺の地図はこちらから▼
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