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にじょうじょう
 子供の頃、城らしい影も形もない場所なのに、なぜ名前に『◯◯城』とついているのだろう、と不思議で仕方なかった。大阪府在住だった筆者は、城と言えば幼い頃から見てきた大坂城しか知らず、城のシンボルである天守閣のない城が存在するなどと考えられなかったからだ。

 ここ二条城も本丸天守閣がない城のひとつだ。他の多くの城郭のように落雷による火災で焼失したそうだが、創建時は望楼造りの五層の天守閣があり、のちに建て替えられた天守閣もやはり五層、そんな調子で二条城完成以降通算140年ほどのあいだ天守がそびえていたそうだから、平地での高い建物が東寺の五重塔くらいしかなかったその頃としては、たとえ平城(ひらじろ)といえども遠くからでもそれなりに目立っただろう。
 もともと野戦を得意とした家康にとって、城は防衛のための要塞と言うよりも権力の象徴であり威嚇のためのものという考え方があったようなので、二条城はすぐ近くにある御所すなわち朝廷に対しての精神的・政治的な監視塔のような存在だったのではないだろうか。

 二条城は修学旅行や社会見学のコースに当然のように入っている事が多い。秀吉没後に屋台骨のぐらついた豊臣家から家康が政権をもぎ取ってゆく際に政治上の重要拠点となり、大阪夏の陣の戦勝祝いに諸将を集めて宴を開いたのもここなら、その約260年後の15代慶喜の時には大政奉還の舞台となって今度は逆に徳川政権に幕を引いた、いわば“徳川が始まり徳川が終わった”ドラマチックな場所だからだ。


 もっとも、いずれの舞台もいまや土台を残して消えてなくなった天守閣ではなく、見上げんばかりに巨大な二の丸御殿である。しかも、日本史における重要な歴史のターニングポイントが演じられた舞台であり、城という戦のための装置でありながら、どちらもその時点では流血とは無縁だったことは注目すべきである。
 秀吉最盛期に車寄せ…すなわち今でいえばエントランスホールとして造られたこの建築物はまさに歴史の舞台そのもの。さきの大政奉還もだが、明治になったばかりの頃の京都府庁としても使われた事があるというし、Wikipediaで見る限りでもまさに運命に翻弄されまくっているので、よくぞ今まで残ったものだとあらためて感心させられる。

 さてそんな事はさておいて、ここ二条城は本丸天守台や二の丸・本丸御殿をとりまくようにして様々な桜が植えられ、季節にはなかなかの観桜散策ポイントになっている。上の写真は本丸天守台からの眺めだが、堀の外に沿うように桜の回廊ができているのがお判りであろう。
 ここの桜はソメイヨシノだけでなく、数種類の開花期の異なる桜が多く植えられているのでそれなりに長い期間楽しめるのがありがたい。
 筆者は二十年ほど前、唐門を入ってすぐ左手にある大きな寒緋桜(かんひざくら)に惚れ込み、以後桜の季節になると植木市などで探し回ったあげく、結局見つけることはできなかったが、その後のNHKの朝ドラによる沖縄ブーム到来の折にはいとも簡単に通販で苗を入手できるようになった。おこがましいが右の写真は自宅のものである。

 とはいえ今でも近畿ではそれほど一般的ではなく、またこの二条城のものほど立派な寒緋桜を他にまだ知らない。さまざまな桜が混在する二条城にあって唯一無二の一本で、それも他の桜からぽつりと一本だけ離れて植わっている孤高の桜である。
 きっとこれが植えられた経緯にはいろいろとあるのだろうな、と思って調べたが手掛かりは得られていない。どなたか由来をご存じの方はぜひご教授願えれば幸いである。
 枝垂桜よりも濃厚な、名前の通り緋色をしたこの桜はじつは台湾原産で、石垣島で桜というとこれを指すのだとマコトシヤカに聴かされた記憶があるが、真偽の程はまだ知らない。
 ちなみにひと昔前は『緋寒桜(ひかんざくら)』とも呼ばれたが、園芸種には秋にも咲く『彼岸桜(ひがんざくら)』もあり、ややこしいからかこちらは『寒緋桜』で統一された感がある。右の写真は実物の約1.5倍と小さい。花びらは平開せずうつむきに咲くので、見上げられる大きな木になるほど見応えがあるようになる。


 寒緋桜を皮切りに桜を辿りつつぐるっと巡ってゆくのだが、ここの桜の植え方は他の京都の歴史的社寺にや街なかにある桜に比べて色気がないというか、どこか無機的といえばいいのだろうか、言葉を飾らずに言わせていただけるならどうも“芸”がないような感じがするのである。
 もちろんどれも美しい桜には違いないのだが、これが例えば他のところでなら、ぽつりとただ一本だけ植わっているだけの桜でも、もっと“芸をしている”気がする。まして加茂川沿いの桜並木のように、一見したところ時の為すがままに枝を織りなした結果のようでも、それなりにこなれた雰囲気があって、さまざまな個性と味わいを持った樹々とは対照的である。
 よくは解らないが、整えようとしてかえって不自然になった、そんな感じの桜並木の庭園なのである。
 いや、もしかしたら逆なのかも知れない。

 ここの桜はむしろお行儀が良すぎて、植わり方が几帳面すぎるのかも知れない。そのくせ本来の遊び的な手入れはなされていない…いわば街路樹のような感じを受けているからという気もする。
 桜というのは本来切られるのを嫌う。雑菌に弱く、切り口から傷みがはじまり、場合によってはそのまま枯れてしまうほどに痛手を被る事が非常に多いからだ。桜の枝を折るな、というのは実は公共物だからというよりも、それが大きな理由なのである。
 とはいえ、手入れをしないと本当に奔放な育ち方をする(上・右の写真の桜がいい例である)し、年輪を重ねてくると花付きも悪くなり老化が目立つようになるのも事実である。
 だから玄人にお願いして他の植木同様にある程度の剪定などの手入れが必要となるし、桜の景観でよく知られた所のものはちゃんと手入れのあとがある。そのくせ、しっかりと野性味が残され活かされているのはそれなりのテクニックを駆使されているからだろうと思う。

 いわば二条城の桜の庭は“無骨”なのではないだろうか。穿った考えかも知れないが、どことなく武家好みというか、雅な雰囲気や遊びの心よりは簡素で質実剛健、規律と折り目の正しさに重きを置いた武士のスタイルのようなものが見え隠れしているような気がしてならない。
 無論、いま城内に植わっている桜がそんな当時のものと同じであるはずはないのだが。

──もちろんこれは筆者の勝手な独断的観測であって、事実はまったく異なるかも知れない。あくまで見た目の印象である事、また好悪の話でもない事をお断りしておく。
 ちなみに上・左の写真の池には石の亀がいるが、これが江戸の昔からあったものかどうかは知らないが、そうだとしたらこのユーモアは直接的すぎて雅を重んじた公家のそれではないことだけは間違いないと思う。


 ところで二条城の東には南北に幅の太い堀川通(ほりかわどおり)が通っている。もちろん名の由来は堀川という川を挟んだ通りだったからだが、筆者の知る限りいつ見てもここはずっと“空堀”状態だった。
 不思議に思っていたが、ものの本によるとかつては友禅染の排水や生活排水が流れ込み、下水代わりでそうとう汚かった…というからかつての道頓堀川みたいな具合だったのかも知れない。もっともそちらも知る人は筆者の世代より上の人だが。
 そこで1950年代にせき止めてしまったのを、一条通から押小路通までの数キロをご覧のような親水公園として再生して今年2009年3月29日から半世紀ぶりに再び水を流す事にした。流されている水は京都の血液、琵琶湖疏水からの分水である。
 水といってもこの程度の水量だが、誰一人通る事のない死んだ空堀よりはどれほど味があるか。なかなか粋な事をやったものである。
 ところで川底は今風になっているが、護岸の石組みは江戸の昔かそれ以上に古いはずだ。

 ちなみに堀川通こそは、筆者が生まれた昭和36年(1961)まで日本初の路面電車…通称“チンチン電車”が走っていた。
 路面電車の事をそう呼ぶのは、警笛や合図に運転手や車掌が鐘を鳴らした事に由来する(動態保存されたチンチン電車の音を聞く限り、個人的にはどう聴いてもカンカン、にしか聴こえないが)。
 もちろん京都から発した名称である。
当時の京都庶民が通称として呼んでいたものがそのまま旅行者などを通じて全国へ伝わったのだろう。
 その一両はいまも平安神宮の南神苑に安置されているが、とんでもなく小さい。車幅も狭いので昔の本を見ると向かい合わせに座った人の膝にラクに手が届いた、とある。運転台と車掌の席は吹きっさらしだし、大雨の時など浸水して感電やショートする事などはなかったのだろうか。
 写真では植木に隠れてしまっているが、台車は今の路面電車と違ってひとつだけなので、カーブの折など左右だけでなく前後上下にまでかなり揺れた事だろう。なんせ京都の路面電車のカーブは90度に曲がったのだから乗り心地はかなりダイナミックだったに違いない。筆者が知る京都市電もたいがいだったから。
 そしてこの電車を動かしていたのは他ならない蹴上にある日本初の水力発電所の電気であった。

 江戸幕府の象徴である二条城の前を元気よく疾走する産業革命の象徴、チンチン電車。
 さぞや京都の人間にとって痛快だったに違いないと思うのも、筆者の勝手な想像である。

▼二条城付近の地図はこちらから▼