『ぶら旅』トップページへはまたはこちらから→ ■■■/*TOMZONE-S SHOWメインブログはこちら→■■■


ひこうじんじゃ
 日本は何でも三大ナントカという、カテゴリーのTop3を決めるのが好きである。
 ご多分に漏れず、この飛行神社の近くにある石清水八幡宮も三大八幡宮のひとつなのだそうだ。あとのふたつは鎌倉の三宅八幡と…いや、今回はそんな話ではない。
 ターゲットはそちらではなく、『飛行神社』である。今回は京都というテーマからは大きく脱線するので予めご了承願いたい。

 古来、神社というのは規模や一般的な知名度とは無関係に、信仰のニーズによって遠く離れた土地に住まう人にも名が通っているところがなんとも興味深い。
 いい例がここや伏見の『油掛地蔵』だ。もっとマイナーなところでは『針神社』なんてのもある。逆に有名なのが酒の神様で知られる松尾大社。いずれもそれに関連した仕事をなさってる方の信仰が集まっているのが常だ。


 いや、筆者としてはむしろ巨大な社殿神殿を備えて全国的なチェーン展開をしている企業みたいな神社よりも、こぢんまりとした鳥居やドールハウスみたいな祠だけしかないお社の方が霊験あらたかなように思える。
 バチあたりな例えだが、大規模量販店よりも個人商店の方がサービスが行き届いている事になぞらえるのもあながち間違っていないのかも知れない。
 そんなわけで、規模の大小が信奉者の数に比例しているとは限らない。

 飛行神社の場合は当然その名が示すように、参拝者や寄贈者には航空関係企業とその関係者の名前が連なる。といっても日本の場合直接空に舞い上がる人々は限られてくるが、関連企業となると実はとんでもない数になる。ビス一本を取っても、航空機の部品は地上で使われるそれとは材質もグレードも根本的に異なるからだ。そして同時に人類最高度の科学技術力に裏付けられたハイテク運輸サービス業でもある。

 人類の空への憧れが一般的な夢として具体的に実現したのは1903年。ご存じライト兄弟による動力飛行がその先鞭をつけた。もちろんそれまでに熱気球やグライダーはあったが、乗客を運ぶという段階にはまだまだ程遠かった。
 しかし空への憧れが一部の宗教家にとっては“神への冒涜である”とされた事を認めるわけではないが、航空機の歴史はそのまま事故の歴史でもある。
 それは飛ぶことを実現できなかった頃からすでに始まっているし、今もいたましい事故は尽きることがない。
 この神社に掛けられた絵馬には、そうした哀しい歴史に裏付けられた切なる願いも込められている。

 と同時に、航空機の急速な発達は戦争と直結している。1903年に誕生したプロペラ式動力飛行の技術はわずか15年後には戦闘機や爆撃機を生み出し、さらに25年後にはジェットエンジンが実用化された。

 飛行神社の真っ正面の、ショウウインドウというか、巨大なガラスケースに据えられているのは1960年代に西側諸国の主力機で日米初の実用超音速戦闘機だったロッキードF104『スターファイター(日本名:栄光)』のエンジン。これだけでも驚きだが模型ではなく実物だけに二度驚き、筆者は感動のあまり、ひとりこの前で唸り大騒ぎしていた。
 実機が飛んでいるのは観たことがないが、東宝怪獣映画やテレビ『ウルトラQ』など、特撮では必ず勇敢に怪獣や宇宙人の侵略と戦ってきたメジャー機である。どんなのかをご覧になりたい方は、筆者がしょっちゅうお邪魔してはココロに潤いを戴いている『TAMAKI's Little Treasure』“Degirama JASDF Collection日本の翼コレクション”のページに在りし日の勇姿があるのでご覧戴きたい。
 神社であるからには鳥居があるが、おそらく他に類がないであろう。ここの鳥居は飛行機にはなくてはならない素材、ジュラルミン製である。この鳥居は二代目で、写真によれば初代が建てられた頃はまだ飛行機の基本材料は木製だったようだ。

 鳥居をくぐる短い階段を上がると、小さなモニュメントがしつらえてある。ひとめでプロペラと判るそれは醜く萎えたように曲がり、その後ろにはいびつに破損したエンジンが部分的に残っている。海中に墜落した零式艦上戦闘機…通称『零戦(ぜろせん)』のものとある。
 エンジン本体はアルミニウム合金、プロペラはジュラルミンなので白く粉を吹いたようになっているが、鉄でできていた遊星ギアやボルト類は赤茶色く錆び、奇妙なにぶい紅白のコントラストを描いている。
 添えられたパネルによると、底引き網にかかって岸和田漁港に引上げられたとあるから、大阪空襲の際に防空迎撃のために空へ駆け上がって戦ったものの力尽きて撃墜されたのかも知れない。ただ、本来空母に載せられて遙か洋上で闘う海軍の艦上戦闘機の部品がなぜそんなところで引き上げられたのかは首をかしげるしかない。

 一方、近くにもうひとつプロペラがあるが、こちらは平和になった空を駆け、無事に役目を終えて寄贈されたものである。石灯籠の台座にアルミ合金の支柱をしつらえてある違和感が不思議な雰囲気だが。
 どちらも空を飛ぶために生まれてきたのに、ここにも明暗を分けた奇妙なコントラストが見て取れる。


 神社というものの、正面の拝殿はギリシャ風の神殿のようなつくりでさらにその向こうにレンガ造りの資料館があるので、右手にある神殿を見落としたら神社だとはまず思わない。
 記事トップと左の美しいステンドグラスは、その神殿風の拝殿の前後にはめ込まれたもので、こちらはトンボ、先の写真はトビウオ。いずれもいわく付きだ。
 だが建物がユニークであろうと、神社である以上おなじみの絵馬がかかっている。
 絵馬のデザインは『カラス型飛行機』とこれもまたユニークだ。これについてはあとで紹介する。

 失礼ながら願掛けのための絵馬を見させていただくとなんのなんの、大手二社はもちろんだが航空大学校入学祈願をはじめ、第何次試験の合格とか、実地訓練の成功祈願とか、航大はもちろんパイロットを目指す人にとっては、入試さえ通ればあとは遊んで暮らせるといわれる一般大学と違って、入学してからも数々の厳しい試験に次ぐ試験の嵐であることを考えれば当然のことであったろう。
 さらにはスチュワーデス志望(今はキャビンアテンダントと言うが、やはりスチュワーデスという名称のほうがむしろ品があると思うが如何)航空業界就職祈願など個人的な内容のものもあれば、客室乗務員全員の安全祈願、航空自衛隊の隊員や、その家族による安全祈願、それに空に縁があるのは航空自衛隊だけではない。陸上自衛隊にもヘリ部隊があり、海上自衛隊にもヘリや哨戒機がある。
 印象的だったのは、永年パイロットを勤め上げられた事に感謝する内容や、チーム全員で無事に訓練を終えられますようにといった温かく微笑ましいものだ。
 中には英語ではない外国語で書かれたものもあった。


 航空機の歴史が浅いのと同様に、この神社の由来は新しい。といっても明治24年、1891年の創建であるが。
 歴史に“もしも”はないが、もしも、当時の陸軍の偉いさんに見る眼があったら、動力式有人飛行機の発明の名誉は日本人・二宮忠八(にのみやちゅうはち)のものだった。
 彼の波乱に満ちた生涯については少し詳しくはウィキペディア、もっと詳しくは実際に飛行神社の資料館を訪れていただくのが最良だが、晩年、航空機発明に青春を賭けたものとして、航空事故の鎮魂や運航の安全祈願のための神社がないことを苦慮した二宮忠八氏が私財をなげうって創建し、初代の宮司となったのがこの飛行神社だったのである。

 筆者がここを知ったきっかけは、やはり希代の飛行機マニアとして知られる斎藤茂太氏(かの斎藤茂吉の長男)の著書に載っていたことによる。しかし資料館があることは、いつもお邪魔している『京都を歩くアルバム』の著者・りせさんがチラッと文章で書かれていたことで初めて知った。
 すでにお分かりのように筆者は飛行機ファンである。マニアだと名乗れないのは、実際に載った経験が少ないためと、コレクターではないからだ。
 とくにプロペラ機に魅せられた身であるので、二宮忠八氏は新田次郎氏の作品『鳥人伝』の主人公、表具師:浮田幸吉(うきたこうきち)と共に日本の、いや世界の元祖ヒコーキ野郎として憧れの人物であると同時に、たった百年前のことなのに、めったに見られるチャンスのない航空黎明期のナマ資料などがすぐ手の届くところにあるこの資料館は筆者にとって夢の館だった。

 ごらんのように一周くるりと巡ると二宮忠八氏の生涯に触れることができる、よくあるシンプルなスタイルの展示室だが、そこに展示されている写真やスケッチ、模型のすべてが筆者が永年苦労して集めた資料をはるかに凌駕する内容のものばかりだったため、筆者はかぶりついたままかなりの時間を費やした。
 壁側は二宮忠八氏関連だが、部屋の中央部はさまざまな飛行機の模型や実際の機器が飾ってある。
 驚いた事に人工衛星やロケットの模型も多数あり、現在活躍中の通信衛星の精巧な模型には打ち上げ成功祈願とプレートが打たれ、NASDAの名があった。
 よく考えたら当たり前なのだ。天を目指し、虚空を飛ぶ宇宙船も空の申し子なのだから。


 さきほどチラ、と書きかけた『カラス型飛行機』とはこれである。航空力学が広く知られるようになった昨今では、少し調べればゴム動力で自力で離陸する模型飛行機を造ることは簡単である。勘が良ければ勉強の必要もない。
 が、しかしそれは実際の飛行機を見たことがあり、その原理を体感的に知っていればこそである。
 二宮忠八氏の当時、空を翔ぶものは鳥と昆虫、トビウオくらいのものであり、人間が作ったものは凧と気球くらいだ。当然それらを手本としたが、欧州の飛行機発明家の多くが羽ばたき式飛行機(オーニソプターという)を必死で実現しようとしたのに対し、彼は所詮当時の科学技術では不可能であると考えて最初から固定翼式で開発を進めた。
 そしてたどりついたのがこのフォルムだったのだが、ライト兄弟がある意味偶然の重なりでたまたま飛行に成功したような事も、二宮氏は原理を考えつき、理論に基づいてすべてのパーツや構成を練っていたことに驚く。

 当たり前と思われるだろうが、実はこの時点まで飛行機の動力源としてプロペラ推進器という概念すらなかったのだ。しかも、ライト兄弟が数年後にようやく実用化したような工夫も、すでにこのカラス型飛行機は備えていた。
 かえすがえすも彼に飛行機開発の許可を与えなかった当時の陸軍での上官を恨んでしまう。(事実、後年その上官はかなりの偉いさんになっていたにもかかわらず二宮忠八氏に心からの詫び状をしたためている…とりかえしがつかないが。)

 記念資料館にはこのほか小部屋もあり、そちらには全国の有志による飛行機プラモの展示室と航空機に関する図書室になっていた。ソファもあって自由に閲覧できる。
 小部屋といってもこれもかなり広く、天井まで届く陳列棚に置かれたプラモはどれもこれも飛行機ファンなら垂涎の品ばかりな上に、かなり高度な製作テクニックによる高い完成度のものばかりである。いったい、何機あるのだろうか。写真は一面だけだが棚は反対側にもしつらえてある。おそらく、日本一の飛行機模型コレクションだろう。
 しかも、これまた作り上げるのに資料さえ入手困難な第一次世界大戦以前の航空機、それもキットさえ滅多に見られない珍品だらけなのでそれ自体が貴重な資料でもある。

 いずれも“解る人には解る”シロモノばかりだ。可能ならケースから出していただいて四方八方からつぶさに撮影させていただきたかったが、宮司さんが館内に見つからず諦めざるを得なかった。逆に言えば、お世辞にも人相の良くない上に歓喜のあまり挙動不審な筆者を信用してうっちゃって行かれたわけだから驚く。

 撮影はしていないが反対側の少し小さなケースにはヘリコプターの模型。いつまでも居たかったがそうもいかない。

 かのF104のエンジンが置かれた入り口のわきに社務所があるのだが、お礼の挨拶がてら、かの『カラス型飛行機』デザインのお守りを買わせていただこうと思っていたのに、結局お逢いできないままで去ることになった。
 次回はぜひ入手したいと思う。しかし次に訪れたら、今度こそ帰りたくなくなるかも知れない。


▼飛行神社付近の地図はこちらから▼