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ただすのもりのはりねずみ
 筆者は工芸品───クラフト・アートが大好きだ。
 そういう意味でも、京都という街は宝の山である。なんといっても1200年前に都ができた時点ですでに他地方からの“観光客”を当て込んださまざまな土産物がズラリとあったというから筋金入りである。
 寺社ごとに工夫を凝らしたおみくじや、お守りグッズの多彩さも一種のクラフト・アートだ。もちろん、単なる板きれに印刷を施しただけのイージーなものは別だが、ちいさな土の人形や、木彫り、ちょっとした仕掛けのあるものなど、じっと見ているだけで作った人の手の温もりや気持ちが伝わってくる。

 おなじ心のこもり方を感じるものに、木製の玩具がある。
 筆者の明治生まれの祖父はたいへん器用な上にキッチリした職人気質の人で、戦前・戦後を通じて兵庫県の某有名大学で使う特殊な実験器具などを作っていたそうだ。
 そのウデを活かして、孫である筆者にと全長50センチほどのかなりガッチリした木製の電車の玩具などを作ってくれている。塗装こそ剥げてくすんでいるが、48年を経過してもまったく壊れていない。

 そうした玩具は手間暇が掛かっているので買おうと思うと当然、かなり高価である。


 だが同時に採算が取れないので、哀しいかな日本では他の工芸品同様に滅亡寸前なのが現状だ。だが、伝統や技術者を尊敬し大切にするドイツでは若い技術者が育ち、いまも脈々と新作が生み出されている。
 しかも、コスト重視の大量生産や手を抜いて作る事など思いもせず、何十年も前と同様にあいかわらずひとつひとつに魂を込めて“こしらえて”いる。だから製品を見ているだけで愛情が伝わってくるのだ。

 手前味噌な話が続いて恐縮だが、明治の京都生まれの祖母は何につけても“つくる”と言わず、“こしらえる”と言っていた。こしらえ、と言えば『拵え』と書き、剥き身の日本刀にツカやツバをつけ、細工されたサヤに納める装飾そのものを連想する。
 無造作にものを生み出す事を“つくる”、ひとつひとつに魂を込めてカタチに仕上げて行く事を“こしらえる”と呼んで区別したように思うのは筆者の勝手な解釈だろうか。
 そして、かつて日本製品がすべてそうであったように、ドイツ生まれの木の玩具は今もどんな小さくて些細なものも、たしかに拵えられているのである。

 そんなわけで、どこに出掛けても木の玩具を扱っている店を見つけるとついつい足が向いてしまうのだが、店の規模や品揃えとは関係なく、失礼ながらたいていの場合は単に木の玩具を並べて売っているお店、というレベルを超えない。
 おもちゃ屋なんだから当たり前だろう、と言われれば返す言葉はないのだが、そのお店は違っていた。
 ショウウインドウの外から見える玩具たち自身の愛らしさに惹かれた事も確かだが、飾り方がどこか違っているのである。


 店の名は『ただすの 森のハリネズミ』。ただすの森、とは出町柳の駅からかの下鴨神社へ向かう途中にある、300m足らずの『糺の森』のことだ。
 記事下にリンクしたGoogleやYahooの地図を見るまでもなく、場所は実にわかりやすい。その糺の森の西側を南北に走る下鴨本通の東側を歩いて行くとすぐに見つかる。

 可愛らしい木工ステンシルとお店のロゴシールが貼られた入り口の窓越しに、お店の方とおぼしき上品な小母様と目が合った。店長の田川さんだ。遠目にもその方がにっこりと微笑む様子がなんとも魅力的である。
 このサイトや各記事の冒頭などでもよく書いているが、恥ずかしながらとにかく筆者は始終カネがない。だから基本的にお店の大半は綺麗に言えばウインドウショッピング、いわば冷やかし前提で、昔の悪い言葉で言えば「夏場のハマグリ」…身腐って(見くさって)も貝腐らん(買いくさらん)、という情けない次第である。
 そんなていたらくなので、お店に入るという事に関してたいへん後ろめたい気持ちを持っている。だからといって、挨拶代わりに適当に何かを買う、というマネは品物にもお店にも失礼なので絶対にしない(というかできない)。


 でもこのお店には入らずにいられない“ 魔力”があった。
 事実、入り口をくぐるなり全体に圧倒されるオーラを感じた。人の手が生み出し、魂を込められた時のオーラ。と同時に、ひとつひとつが大切にされている故のオーラ。
 こういうお店はどんな業種でも一歩踏み出した時にどんと伝わってくるものがある。
 もお、筆者は大声上げてはしゃぎたい気持ちを必死に押さえながら、一秒も無駄にするまいとあっちもこっちもと店の中をうろつきまわっていた。品物自体、どれもこれも、いままで見たタイプとはどこか違う。

 とにかく趣味がいい。そして並んでいるどれもが、もっとも魅力的に見える陳列の仕方になっている。
 しかし今にして思えば、計算してそうしているというよりも、どんな玩具もひとつひとつ慈しみ、愛おしんでいればこそ、その玩具がもっとも“そうしてほしい”と思われる並べ方を自然とチョイスされておられるのではないか。
 どんなお店でもそうだが、商品を愛し、慈しんでいるお店は共通して品物が見やすく、手に取りやすく置かれているし、またわざわざ手に取らなくてもその特徴がちゃんと解る置かれ方をしているものである。

 繰り返すが、筆者は基本的に“買えない”。だから探しているものがないかと店に行くのではなく、とにかく何があるのかを見たい、と物色しにゆくのが目的である。お店にしてみれば単なる迷惑客と変わらない。
 けれどご主人の小母様はそんなダメ客にも慣れっこなのか、筆者のように買いもしないのになんでもかんでも触りたがり見たがる悪客にすら、なんら監視的な視線を投げかけてこられない。
 そして押しつけがましい説明もされない。

 だが、たまりかねて筆者が思わず質問の口火を切ると、仕事の手を止めてまでひとつひとつ丁寧に説明をしてくださったのである。その、玩具のどれもがとにかく楽しい。面白い。グッドデザイン賞もののアイデアと洗練されたデザインの賜物揃いなのである。
 例えば上の写真に写っている、花びらのタワーもそうだ。一番上に木製の玉を置くと、くるくると廻って落ちながら順番に花びらを叩いて行く仕掛けだ。───そう書くと単純だが、少しづつ大きさの違う木の板なので落ちる度に音階が変わる。
 そして最後にちゃんと下にあるお盆にうまく落ちる。ワクはそれほど高くないのに、ハネて外へ出る事もない。すべてが絶妙の塩梅でこしらえられているのだ。


 筆者は調子に乗って、あれは?これは?と質問のしっぱなしだった。幸いその時は他に客はいなかったものの、ほんとうに微に入り細に入ったお話を聞かせていただいた。その間、軽く小一時間。なのに、まだまだ「あ、あれも、これもあることに気づかなかった」玩具があることに気づく。
 ひとつひとつが魅力的であり、それに見入っているとすぐそばにまた異なる魅力ある玩具がある事に気づかないのだ。そして、一度眼を放して見回すとまた見つかる、といった塩梅だ。
ようするに楽しみの尽きる事のないワンダーランドである。

 説明を受けて納得した事が多々ある。というか、何を聴いてもなるほどと感心する事ばかりなのだ。
 子供が遊ぶからということで、たいていの部品には面取りがしてある。どんなに小さな部品でもおろそかにはしない。だが安全規準を法律で決めているというより、そこにあるのは弱者に対する思いやりの心である。
 そういえば先に書いた筆者の祖父がこしらえた木の電車も、ずっしりと重いが全くないに等しいくらい見事にカドが削られ、磨かれていた。

 しかし面白い例がある。

 厚さ2mm、一片が3×4cmほどの板きれで、それぞれ木目を活かした色で染められたのちに、真ん中に小さな穴を穿たれた玩具のセットがある。これにはA6サイズくらいの分厚いコルク板と虫ピンのようなクギ、そして木でできた細工用のような可愛いトンカチがついている。手に取ると、板きれはどれも表面がなめらかで、丁寧にカドが磨かれていてなんとも優しい手触りだ。

「試してみてください」と勧められるまま、この穴にクギを入れてコルク板に打ち込むと、軽やかで音こそ小さいが、まるで大工仕事でもしているかのような見事な響きがする。とくにクギを頭まで打ち込むフィニッシュ時がいい。
 もちろん土台がコルクなので容易に抜けるが、このコルクも密度の高い上質のものなのでボロボロになる事もなさそうだ。
 クギの長さは3cm程なのでオトナがつまむには厳しいものがあるから完全に子供用だが、イマドキの考え方で行くと『子供が遊ぶ玩具に金属のクギなんて危険ではないか』と思う。
 実際、筆者も「えっ。本物のクギか」と驚いた。
 だがよくよく考えると、
玩具で遊んでいる幼い子供を放置などしない、という当たり前の事が前提なのである。見守るのがオトナの義務や責任であり、同時にそうして遊んでいる子供を見守る事こそがオトナの楽しみなのだから。
 遊びの中で工夫や危険の有無を学ぶのである。

 日本には子供の安全を守ると称して、テーブルのカドをカバーするゴムや尖った部分のない刃物など奇妙なものが多々あるが、筆者には、我が国が考える“安全”にはどこか勘違いがあるように思えてならない。

 本当の意味での教育のあり方を考えさせられる玩具である。

 そういうものとは違った意味で、変わり種もある。
 ドイツの工芸品は手作りでアナログなイメージがあるが、これは白樺の木をスライスしたものをレーザーで切り抜いたというハイテクと伝統工芸の見事な融合である。
 テーマはブレーメンの音楽隊やシンデレラの馬車、受胎告知に赤ん坊を運ぶコウノトリなど、いかにも欧州ちっくなもので、普通に見ても木目の質感が良し、またシルエットで良しというなんとも上品なもので、クリスマスツリーのオーナメントでもいいし、小窓につるしても美しい。
 ご主人いわく、「ドイツでは窓にものを飾るんです。外を行く人も楽しいし、家の人も楽しめるこうした工芸品が多いんですよ。」考えてみれば京都の昔ながらの町屋の玄関先も同じ考え方をしている。

 さて、とうとう魔力に参った筆者と母は、まず、この細工物とともに小さなヤジロベエを購入する事にした。下の左に写っているのがそれだ。「まず」というのは、これからはこの近くに来たら通わずにいられないだろうことが判るからだ。
 いくら貧乏でも、小さな人形をひとつづつならなんとかなるだろう…ということで向こうに写っているコックさん、サンタクロース、本を読む本屋さん(背中に本を背負ってるからたぶん行商?)の三体。かなりがんばってみた。

 右の写真は“煙出し人形”。中にコーン型の香を入れて焚くと、口から煙が上がるという、ドイツには昔からある置物である。大きさは10センチくらいだが、部品の一つ一つが実に丁寧に作られている。おのおののキャラクターに合わせた小物が凝っている上に実に粋である。
 昨今はカタチだけ真似た中国製品が幅をきかせているが、あちらは所詮は模造品、部品がきちんとヤスリがけされていないから木地が毛羽立っていたり、取り付け方もぞんざいで、まったく愛情が感じられないものばかりだ。

 だが本家はさすがで、どんなに顔を近づけてねめ回しても手抜き部分が全くない。
 几帳面で知られる日本人の工場でさえ適当にボンドで無造作に接着してしまいそうな何気ない小さな小さな部品でも、シチュエーションやそのキャラクターの性格まで考えているのか、ちゃんと納得の行く拵え方がされている。

 そんな人形を眺めていると、不思議な事にふと筆者はそれを熊みたいな体格の金髪のヒゲオヤジが、グローブみたいなでっかい手で小さな人形をチマチマと削ったり切ったりしてこしらえている光景が浮かんだ。

 その事をご主人に話すと、あはは、と笑いながら「まさにその通り。ほんとに熊みたいな男の人が怖いしかめ面で、ちーさく縮こまりながら拵えられてるんですよ。でもお話ししたり笑ったりするとすごく可愛いお顔になられてねー」と教えてくださった。逢った事もないその職人さんの仕事ぶりがまるで目に見えるようだった。


 じつは、我が家には何年も前に大阪の新梅田シティというところで毎年開かれる、ドイツ・クリスマスマーケットで思い切って買った、聖歌隊の小さな人形がある。
 左の写真がそうだ。大きさは5cmほど。三体で¥3500。隣の教会は¥2600だと当時のブログに書いていた。
筆者としてはかなりがんばっている。

 そして今回、また彼らに出逢えた。たぶん彼らの兄弟だろう。ただしこちらに置かれていたのは、聖歌隊だけではなく、その彼らの舞台である教会や家々までもセットされていて、しかもそれが電気式のロウソクまでもがついた見事な置物である。細工も見事だが、なにせ美しい。


 外から伺った時もショウウインドウにまずこれが目に付いたし、何度見ても思わずため息が漏れる。
 おそるおそる「ホームページに載せたいので写真撮ってもいいですか」と訊ねると、二つ返事で許可をくださったので、店の中を撮りまくっているのが今回の写真たちである。そして、上に写っているアーチのものがそれだ。店内…つまり裏側から写しているので、聖歌隊は向こう側で見えないが、もみの木の作り方や建物のデフォルメの仕方が上のミニセットと同じコンセプトなのが判っていただけると思う。

「ドイツのお店は夜になっても灯りを消さずに、あえて売れ筋の玩具を外から見えるように並べ直して店員さんが帰られるんですよ。そうすると綺麗だし、お店を閉めた後でも通りかかったお客さんが魅力を感じて、後日買いに来られる。上手いやり方でしょ。で、ウチでも同じ事をしてるんですよ。」
 だから陽が暮れてから来られても楽しいんですよ〜…と例のなつっこい笑顔でくださったのが右の一枚のすばらしく美しい絵はがき!
 そう、もうすぐまたクリスマスが近づいてきているのだ。

 この日は予定の関係で諦めたが、そのうち撮りに伺ってここに追加する予定である。

 また一軒、出町柳をうろつく楽しみが増えた。


 『ただすの森のハリネズミ』ホームページはこちら
そう、ロゴをご覧戴くとお分かりのように“糺の森の”ではなく、
“ただすの”森のハリネズミ、なのである。

▼ただすの森のハリネズミ付近の地図はこちらから▼