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 撮影のための距離や高さが取れないので、なんとも不細工な写真で申し訳ないが、場所は太秦(うずまさ)。
 難読な地名でありながら、あの東映の映画村のおかげで観光スポットとして全国にも知られた土地だ。
しかし人が住みついた歴史としては、平安京よりもはるかに古いという。

 その証拠とも言えるのが、映画村から1kmほど南西にこの『蛇塚』と呼ばれる古墳である。

 これが奈良県の飛鳥なら立派な目玉スポットだが、京都ではむしろ“変わり種”であり、いわゆる観光スポットではない、と言い切っても差し支えあるまい。
 しかし月並みな京都観光に飽きた人なら一度くらいは話のタネに見ておいてもいいのではないか、というのがこの『蛇塚』である。

 もしかしたら考古学ファンなら一見の価値どころか、ちゃんとした値打ちを見いだせるのかもしれない。

 たしかに太秦のメインストリートからは完全に外れていて、このコンテンツではよく引き合いに出す筆者のバイブル『歩く地図の本』にも載っていない。むしろ、Googleマップで「どこか面白そうな場所はないか」と隅の方を物色していたとき、文字に埋もれるようにちょこん、と描かれているのを見つけたのも偶然だ。
 たまたま、マウスの手がすべって下へドラッグしたら、遺跡をあらわすマークと、なんとも意味深な『蛇塚』などという名前が眼に留まったからだ。

 しかしいざ行ってみようとしたら、冒頭に申し上げたように観光スポットとしては知らしめているわけではないようで、案内板もないに等しく、普通の住宅地の奥の奥まで探して探して右往左往、やっと探し当ててみればご覧のような巨大な石の遺跡が一般住宅に囲まれるようにして、まるでこれも一軒の家のようにどん、と“存る”といった印象だった。

 いや、実際は逆で、蛇塚を中心にして民家が建ったのが本当なのだが、これが奈良の飛鳥などで塚とか古墳と聞けば、21世紀の今日でも野っ原にぽつりと置かれた様に鎮座している様子をなんとなく思い描くと思う。
 筆者も同様で、まあ京都だから住宅地に隠れてはいることは覚悟はしていたが、ここまで完全に埋もれてしまっているとは予想外だったのだ。
 だが、ここまで普通にびっしり建てられた住宅たちと“隣近所”然として並んでいられると、古墳というよりオブジェか、石材店の庭先かなんかのように見えてくるから不思議だ。

 じっさい、居並ぶ家との距離はほんとうに“向かいの家”レベルで、Googleの航空写真で確認すると、ご覧のようにまるで孤立した古城が大軍によって城攻めにあっているかのような錯覚に陥る。
 宅地として分譲した時の事情もあったのだろうが、ここまで遺跡に対してギリギリにせめぎ合っているのも珍しいのではないか。

 背中に面している余所様の家のことは忘れる努力をして蛇塚をじっと眺めていると、世界のあらゆる考古学的な建築物同様いろんな想像を掻き立てはするのだが、この蛇塚の場合それは太古このあたりが茫漠とした原野だった頃…などではなく、周りに建つ家の二階から毎日これを眺めて暮らすのはどんなだろうかとか、むしろ蛇塚のもつ神秘性やロマンよりもこの特殊な立地条件に対する好奇心の方が優先してしまうのである。

 これまた筆者の京都バイブルである、1978年刊行───40年前の本を見ると、さすがにその頃はまだまわりの風景に溶け込むようにして、漠然と在っただけのようだ。
 なんと、その頃よりさらに昔は突然降ってきた雨を石室内部でしのいだ、と書かれている。
 もちろん当時の写真には、左の写真に写っているような白い鉄骨の支えもない。ゆるんできたのか、崩落予防のためにこの柵と共に設置されたものと見えて真新しい。

 そう、今はご覧のようにまわりには防犯のためと思われる立派なフェンスが張り巡らされ、そばに近づくことはできない。
 しかし入口にはこの近所で世話や管理をなさっておられる方の名札があり、特にお願いすれば拝見も可能らしき含みが書かれていた。

 とはいえ、あいにくここを探し当てた時はもう夕餉の支度が始まる頃で周りにお住まいの方もみな家の中で、昔のお話などを伺うことはできなかった。
 それもあるが、もともと観光用の見世物でなし、自分の我が儘でわざわざお願いするにはどうにも気が引けるので諦めた。

 しかしサイズこそギネス級でも、近所の方にしてみれば、京都の街なかにあまたあるお地蔵さんなどと大差ないのかもしれないな、と感じた。


 家々を縫うようにして歩き回ってようやく見つけた時、離れた位置の家の陰からでも、意外に目立ったのがこの樹。
 まるで蛇塚のシンボルツリー然といったたたずまいで、『天空の城 ラピュタ』を連想せずにおかない、美しいシルエットの樹だ。

 なんとなくシチュエーションも似ていて、他の写真をご覧になれば判るように、石室内部からにょきりと生えている。

 だが、確証はないものの、どうやらクスノキに見える。
 だとしたら放置したら本当にラピュタのあの樹のようにとんでもない巨木になってしまうことになる。当然そうなれば根元の古墳など力技で押しのけてしまい、簡単に崩れてしまうことだろう。
 いや、もしかしたら支えが必要になった原因はこの樹の成長によるのかもしれない。

 はるかな太古、どのような手段や目的にせよ、人が作ったものなどは植物や自然の営みにかかっては所詮、ただのこわれ物にすぎないのだと思い知らされる。


 せっかくなので、最後に京都府がしつらえた蛇塚の由来書をここに転記しておく。

『史跡 蛇塚古墳(右京区太秦面影町)』
 石室全長17.8m、玄室長6.8m、玄室幅3.9m、玄室床面積25.8平方m

 この巨石の石組みは、古墳時代後期末の7世紀頃築造された京都府下最大の横穴式石室である。本来は全長約75mを測る前方後円墳であった。早くから墳丘封土が失われ、後円部中央の石室だけが露出しているが、周囲の輪郭をたどると現在でも前方後円墳の形をとどめている。
 棺を安置する玄室の幅は、奈良県の石舞台古墳よりも大きく、また床面積では、三重県高倉山、岡山県こうもり塚、石舞台古墳につぐ全国第四位の規模を誇っている。
 この太秦を含む嵯峨野一体は、渡来系の泰一族により開発されたものと考えられており、京都盆地でも有数の古墳分布地区である。蛇塚古墳は、その規模や墳丘の携帯などからみて首長クラスの墓と考えられる。
 なお、蛇塚という名称は、石室内に蛇が生息していたことから付けられた呼び名である。

 指定年月日 昭和52年5月4日(国指定)


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