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 正式名称を『木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)』と言い、土地の人は『このしまさん』または『かいこのやしろ』と呼ぶのだそうだ。
 京都市による解説の看板によれば、西暦701年4月3日付で『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されていると言うから、それより前から存在する、まさに神代の昔からある神社である。

 はじめてここを訪れたのは、もう30年は前の事になるだろうか。

 晩秋の夕暮れせまる時間帯で、どこかに行った帰り道に迷い込むようにしてここを見つけた。おそらくは広隆寺か、映画村からの帰りだったのか。
 併設された保育園の保母さんと幼い子供が数人、黄昏色の光の中で落ち葉を散らかしながら元気に遊んでいた姿がすごく絵になっていて、今も忘れられない。
 けして広くはないが、とにかく静かで落ち着いた境内だった。長居をするわけではない。奥まで入っていって、ぐるっと見舞わればそれで満足した。それから何度か、近くに行った時はその雰囲気が好きで必ず立ち寄った。


 その奥、左手にずーっと入ってゆくと、日本でも四基しかない、三本柱で三面ともに正面になる三柱(みはしら)鳥居があるのだが、他の三箇所と異なり、ここの鳥居は『元糺の池(もとただすのいけ)』と呼ばれる泉の真ん中に立っていて、なんともいえない清らかな雰囲気を漂わせていた。

 いや、清らかどころか、夕暮れ時で薄暗かったせいもあるかも知れないが、むしろゾクッとするほど強い力を、そこに近寄りがたいほどの神聖な存在を感じ取った。

 例えがヘンかも知れないが、アーサー王物語に出てくる、神剣エクスカリバーを秘めた湖はきっとこんな風に神々しかったに違いないと思える泉だった。

 この鳥居は1831年に再建されたそうだ。ウィキに依ればそれ以前はかの葛飾北斎の『北斎漫画』に木製の鳥居として描かれているとあり、刊行された年代からすれば1800年頃のことのようだが、絵をみる限り泉がなく、むしろ高い位置にあるように描かれているので果たしてこの鳥居の絵かどうかは少々マユツバだと筆者は思っている。

 綺麗に整備された道路に面した正面の磨き丸太でできた鳥居は、初めて来た時と変わらずに美しい。

 それは今も変わらないが、当時と今で激変していることがある。


 泉が枯れていたのだ。
 1996年、と記されたポジフィルムの保管ケースにしまってあった写真が上のものだ。
 けして深くはないが、先に述べた水が涸れることなく満ちていて、その水の恩恵を受けて石垣の周りには緑がしたたるように繁っていた。ところが2008年に訪れた時は愕然となった。
 ごらんのていたらくである。何があったのかは判らないが、昔からこうした場合はたいてい、大切な水脈の上に誰か無知な者がなにかろくでもないことをしでかしてしまったのである。
 見れば水を入れるためか、工事現場で使うようなビニール製のホースが近くまで引かれていて、もと水底だった所にはライトアップ用らしき防水ライトがしつらえられていた。行事の時だけ、水を入れるためなのだろうか。しかし、乾ききって雑草が生えている水底は、それが長い間行われていないことを示していた。

 7世紀から間違いなく存在した泉は雨乞いの神様でもあったそうで、平安時代の記録にもあるのだそうだ。それに、太秦は名の通り渡来系の泰氏の本拠地であり、養蚕や瀬戸物、機織りの一大産業地域だったこともあって、東側には蚕養(こかい)神社が建っていることからここが『蚕ノ社』と呼ばれているのだとある。

 そもそも養蚕に欠かせない桑(くわ)は綺麗な水がないと育てられないという。水道が当たり前な現代と異なり、日照り干ばつが当たり前の時代に水の供給に不安がないということは、何にもまして神様に感謝したはずだ。


 立派な社殿は明治以降の建立である。そしてさきの看板には『市内でも最古に属する当神社は、境内から清泉が湧き、巨樹が繁茂して古来の姿をよくとどめており、京都発展に大きな役割を果たしてきた泰氏との関連を含め、大へん貴重なものとして昭和60年6月1日に京都市の史跡に指定された』とある。

 なんとも皮肉なことだ。

 伏見の酒造業者さんたちが必死に水脈を守ったお蔭で、いまもいにしえより伝わる旨い酒が飲めるように、いつかここの泉が甦る日が来るのだろうか。

 神様を殺してしまった人間に、神様は罰をくださないかわりに、黙って見棄ててしまうのかも知れない。罰は、わずかでも愛情あってのことだから。


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