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 桜の咲き乱れる光景は、この世の夢を思わせる。

 温かなそよ風にゆらぐ個々の花はおだやかで優しく、ささやかな蜜を欲しがる小鳥の悪戯に時を待たずに落とされる姿は哀れでもある。しかし同時にあまりにも短期間に一斉に咲き乱れる生命のさまは、今を盛りと踊り狂うあやかしの宴とも見え、人を惑わせてどこか妖艶でさえある。

 一輪でも多くの桜に出逢いたい筆者は、毎年どこか見落としたスポットはないかとひたすら地図やガイドブックを物色するが、これまでが同じような手段で探しているのだから、そうそう見つかる訳はない。また、筆者の行くような所は一般の京都好きの方はほとんど記事にされないことが多いので、ネットもあまりアテにならない。
 仕方なくこれまで行った場所を訪れ、あとは気まぐれで道を変えてみたりするのみだが、これが意外に良い結果に繋がることもある。


 今の世でそういう感覚を持った金持ちや政治家は居ないに等しい。夢がないのだ。しかし、明治や大正の人たちの中には、そうした偉人が実に多い。未来に託すべき夢があるのである。

 “桃栗三年柿八年…”ではないが、植物とつきあうにはどんなものでも“待つ”のが基本だ。
 ある程度のコントロールはできるが、あくまで自然の摂理に則らないと何一つ思い通りにはならない。桜の開花予想がなによりの証拠である。
 そして計算ではなく“こうなるといいなあ”と願いながら花を植え、木を植えるのだ。
 そこには夢があり、祈りがある。
 満開の花はそうした祈りが通じ、願いが叶えられた光景だからこそ、夢のような風景となるのだろう。

 だが、桜は儚く散るものの代名詞でもある。

 いずれにせよ、洛中で桜に逢いたければ疏水まわりを狙うと間違いない、と思っている。
 これはほぼ及第点を取れる。初めて訪れる人なら満点をいただけることだろう。

 実際、疏水沿いの桜は本当に見事である。時期さえ外さなければ必ず満足できる。それというのも、もともと疏水ができた時に意識的に桜を植えたのが始まりだが、そう計画した当のご本人たちは“後の世に”そうなると思ってのことで、自分たちが楽しむためではない。
 桜が太い幹に支えられながら枝葉を伸ばし、その枝さえ見えなくなるほどに花を付けるようになるまでは数十年の月日が必要だからだ。

 いわば彼らは、未来の人々が感動する光景を自分たちの夢として思い描いて、景観そのものを遺したのである。


 桜は散るからこそ美しい、と誰かが言っていた。

 それは単におセンチな負け惜しみかも知れないが、疏水をせきとめたダムに集まる花びらがつくりあげた見事な花筏を観ると、散ってなおこれほどの美しさを見せてくれるのかと感動せずにいられない。

 ちなみに、ここに写っている桜はソメイヨシノよりも少しあとに咲く、色もやや濃いめの別の品種のように思える。
 ここは夷川水力発電所のそば、撮影日は2009年4月11日である。
 はるか琵琶湖から山科を流れ、蹴上(けあげ)や南禅寺をかすめて、動物園やふたつの美術館そして平安神宮のある岡崎と呼ばれる一帯の傍らを、流れる先々で無数の桜の花びらを集めながらここまで流れ着くのだ。
 ここからもう200mも西へたどれば加茂川に合流する。
 あいにくせき止められたこの花びらたちが流れ込むことは滅多にないが、加茂川は加茂川で、また別の桜が散って水面に舞い、こんどは大阪目指してはるばると下って行く。

 もちろん、見方を変えれば落ちた花びらは今風で言うところの、生ゴミ以外のなにものでもない。
 秋の落ち葉も同様だ。
 しかし自然本来の姿は、ふたたび土に還り、次の年、また次の年の花のための肥やしとなるはずのものだ。

 散る花は、未来の花を観ることはない。積み重なる落ち葉はただむくろとなるのみだ。
 それでも花は、葉は、未来のために咲き誇り、青々と茂るのである。

 銅像は北垣国道氏といって、疏水建設を計画・完成させた当時の京都府知事の姿。その遥か背後にあるのは比叡山だが、直線距離にすると疏水はあの比叡山と変わらない距離の琵琶湖から引かれていることを考えると、その事業の偉大さが分かろうというものだ。
 まして1890年、120年も前の話で、そこから日本初の発電所を造り、それで日本初の市電を走らせ、街の電化を果たし、さらに桜並木で今なお、人々の心までなごませてくれているのである。
 偉人とはこういう人のことをいうのかも知れない。

▼夷川水力発電所付近の地図はこちらから▼