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 水面に映る桜。それに見とれる人々。園内にある式場で結婚式もあったようだ。

 とある春の日に桜を見に京都まで出掛けるのは、毎年の恒例行事のようになっている。
 妙な話だが、せっかくの春なのだ。せっかく、日本中の人が憧れる、京都の春をたやすく観ることができる近畿に住んでいるのだ。
 しかも、この春は今年だけの春。来年の春とは違うのだ。堪能しなければ勿体ない。あまりにも惜しい。だから、今年も無理してでも出掛ける。生命の供宴を全身で味わうために。

 春風に吹かれながら、右を見ても左を見ても、桜、さくら、桜。そういう場所を求めて筆者は京都を訪れる。
 でも私は欲張りなので、上を見ても下を見ても桜だらけでないと満足できない。

 紅葉に比べて桜の見頃の時期は短い。もちろん、桜といっても早咲きのおかめ桜、葉と同時に咲いてゆく山桜から、桜の規準とされるソメイヨシノ、そしてシーズン最後を飾るしだれ桜まで入れると実は一ヶ月以上のスパンがあるのだが、まんが悪いと、見事にどれにも当たらずに数輪残っているだけの哀しい状態しかお目にかかれないこともありうる。

 “まん”とは、タイミングとか、運とか、そのへんのことを全部ひっくるめて表現できる便利な関西弁だ。だが悪い時しか使うことはない。“まんがいい”とは聞いたことがない。
 それはともかく、洛中まで電車で二時間の大阪府下に住んでると言っても、交通費も時間もタダではないから、そうそう京都まで出掛けることはできない。だから毎年、せっかく京都まで出掛けるのだからと、可能な限り行ったことのないスポットを探す。だからハズレも多々ある。

 中には世界的観光地ということで最初から候補に入れていない場所も多々ある。

 この平安神宮もそのひとつだ。

 正直なところ、筆者にとっての平安神宮のイメージはよくない。
 別段、嫌な想い出があるわけではないが、京都に限らず寺社といえば寂びた感じ、侘びた空気感を連想していた子供の頃の筆者にとって、巨大すぎる鳥居、ペンキ塗りを連想させる、あまりにも派手な建物は違和感以外の何ものでもなかった。
 まして、ガイドブックで平安時代の大極殿の縮小版レプリカだなどと聴かされては値打ちなど感じられるはずもない。本当は、創建当時の姿であればたいていの寺社は極彩色、まさに“極楽”を3Dで表現するために可能な限りに飾り立てられた、金ピカの超ゴージャスかつド派手なたたずまいこそがデフォルトであったはずだと知ったのは、ずいぶんオトナになってからのことである。

 赤い絵の具が実は何通りも何種類もあり、それぞれ値段もさまざまで、適材適所に塗り分けてあったということもそうだ。少なくとも学校の歴史ではそんなことは教えない。美大あたりなら話も違うのだろうが。

 そんな調子だったから年齢を経てもまったく“検索”の範囲から外れていた。いや、無意識的にせよ外していたので、これほど見事な枝垂桜の庭園があろうなどとは考えもしなかったのである。


 だが、この年は“まんが悪くて”ソメイヨシノでの感動は薄かったので、桜シーズンのトリを飾る、枝垂桜(しだれざくら)で挽回してみたいと思い、調べてみると平安神宮の庭園こそまさに京都でもっとも枝垂桜が美しいとされる場所だったのである。

 入園料が必要だが、こればかりは仕方ない。普段のポリシーを曲げて入った。
 なにせ世界的にも知られ、しかも桜のシーズンである。人混みは覚悟していたが、それでも午前中早めを狙ったのが正解だったのだろう。すいてはいないが混雑とまではいかないで済んだ。
 枝垂桜はソメイヨシノに比べると一輪一輪は小振りだが、色が濃いのと二重、八重なのでむしろ絢爛豪華である。

 さらに鈴なりの花が文字通り垂れ下がるので目の前に咲いているのも魅力だ。
 もちろん他の種類の桜もちらほらと植えられている。あまり時期的にずれないようとの配慮か、山桜や八重桜が多いように思う。


「やあ、綺麗やなあ、綺麗やなあ。」ひたすらそう繰り返す、おばちゃんのグループ。
 ほう、と息をついて遠い目で何かを想う老夫婦。
 花よりも互いの顔を見つめながら空気感だけを楽しむ若い恋人たち。

 じつに微笑ましい風景だ。

 庭園なので、通路は広くない。しかもある程度コースをたどる順番は決まっているのと、立ち止まることはあまり許されない雰囲気のお蔭で、人物込みの記念写真を撮ろうと一箇所に固まって通行を妨害する人はあまりいない。
 もちろん三脚の使用は禁止なので、純粋に景色を楽しむ人には案外居心地がよい。

 昨今、鉄道写真を撮影する人のマナーが問われているが、花の名所や観光地での風景写真を撮る人の中には、進入禁止の場所への乱入、踏み散らかしやらのマナーはもちろんだが、景色を独り占めする人などは大昔から居たものである。意外にこの“独り占め”行為は道徳に反するとは考えない人が多い。
 三脚禁止、と書かれてなければ天下御免だと思って堂々としたものだ。もちろん、三脚がなくても同じ場所に陣取ったままで石像のように構えたままの御仁も同様である。

 そういう人たちに思いやっていただきたいことは、日々の仕事の中で少ないヒマをやりくりし、はるばる大枚はたいて遠方から京都までやって来た人たちは、ヤグラのような三脚を据えてえんえん構えている見知らぬオヤジやオバハンの背中を見に来たのではない、ということだ。

 芸術家を気取るご当人は何かを待っているのか知らないが、一箇所で粘るにしてもいいとこ5分が限度だ。瞑想でも座禅でもスケッチでも、それ以上はいくらかけても意味などない。
 雲の動きや、動物など予測の付かない“何か”を待っていることは分からないでもない。だがそれは自分の庭か無人の野でやるべき事で、他者が同じ鑑賞目的で訪れる公共の場ですべきことではない。いや、してはならない。

 むしろ、クイックショット&即時離脱の技こそを磨いて貰いたいものだ。
 昔と違ってデジカメにフィルムの浪費というリスクはない。バリバリと取りまくって一撃離脱。この方がどれだけカッコイイか。第一、少ない時間内でいろんなアプローチができるというものだ。
 粘りに粘って撮った一枚より、ノーファインダーでナニゲに撮った一枚の方が出来が良かった、なんて事は写真に少しでも凝ったことのある人なら経験あるだろうと思う。

 風景画もそうで、その時に得たインスピレーションを糧にして、ざっくりしたスケッチとメモのみを控えて持ち帰り、自宅で残りの完成形を描いて行くことにこそ意味があると思う。桜の色など、目の前にして描いても思う色など絶対に出ない。まして太陽光の下で合わせた色は室内では全く異なる色になる。

 瞬時に風景を切り取り、その場で確認できる上にPCで自在に色がいじくりまわせる今のデジタル写真でさえ思う色など出ないのだ。そんな事ができるくらいなら絵などに意味はない。心象風景を創り出せるからこそ、絵は素晴らしいのである。

 毎年、桜はこれでもかとばかりに咲き誇る。鑑賞する側は「綺麗やなあ」のひとことだが、そのひとことを得るために、どれほど丹精され手入れされてきたことだろうか。
 植物はおそろしいばかりに正直で、しかも気が長い。やるべき世話を怠ったら数年後に結果となって現れる。今日怠けても、次の年には許してくれているかのように見えるのだが、その次の年には急にガクリと来る。
 一体、どうしたのだろうかと考えてみると、数年前にちゃんと世話をしていなかったことに気づくのだ。
 まるで「あの時あんた、わたしをほったらかしにして浮気してたでしょう?」と責めるようでもある。

 それは冗談としても、やるべきことをやるべき時期に、適宜行なわないとベストのコンディションは保てない。
 これは老木でなくても同じで、若々しい樹でもほったらかしでは桜は年々花を減らす。肥料が足りないとか、水の過不足、天候不順だとかの単純な理由ではない。それぞれが複雑に絡み合って結果として表れるのである。
 プロはそのそれぞれの微妙な差を見切って、日々の世話の中で調整して行くのだ。

 梅と違って、ハサミを入れるなと言われるのが桜だが、だからといって放任していてはこれほどには花を付けない。枝は徒長し、ひとつひとつの枝に芽生える花芽は減ってゆき、やがて枝が見えるほどにまばらになって、寂しくしょぼくれた樹になって行くのだ。幹は数十年の刻を経ていても、枝は若く活力に満ちた状態を保つ必要があるからだ。

 だから「ここの桜は毎年見事な花を咲かせるねんで」というひと言の裏には、不屈の努力と深い愛情が込められてきた日々があるのである。そして、だからこそこの桜は今年だけの、一期一会の出逢いなのである。


ところで、この園内には『日本最古の電車』が安置されている。
 明治28年から筆者が生まれた昭和36年までの運営当時、いわゆる“チンチン電車”と呼ばれたものだ。思っていたよりも車体は長く、反対に車高や断面はじつに小さく感じる。
 何度か修繕されてはいるそうだが、波板製の片屋根のみの露天のためか、諸処にサビが浮いているのが痛々しい。

 露天だが近づけず、外から片側を観られるだけ。運転台は左右が雨ざらしなので荒天時は勿論、底冷えの厳しい冬は辛い仕事だったことが伺える。客室内の居住性もお世辞にもよくなかっただろうが、花吹雪の中をこれが走っている姿を観てみたかった。

 市電を観たせいか、それまでは半端なレプリカという印象しかなかった平安神宮だが、それでもかなり立派な建物だと思った。
 逆にフルスケールのものを造り上げた平安ビトのものすごいエネルギーにも想いを馳せるようになった。来て良かったと感じ、また来たいとも思った。

 撮影は2009年4月11日。
 訪れる方の参考までに、同日の哲学の道の画像も載せておこう。ご覧のようにソメイヨシノはなかば散り、すでに新芽が吹いているのがお分かりだろうか。

 洛中のソメイヨシノに関しては、この数日後の雨で桜のシーズンを終えた。


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