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もう、来る年も来る年も、桜の季節に訪れたならば必ず、たとえひと目たりともここの桜を観ずに帰ったことはなかった。
それほど観続け、そのたびに優しい気持ちになって満足げに家路を辿った、懐かしささえ感じる径である。だからもし今回も、いつものようにほかの桜スポットを観てから最後にここの“見晴るかすばかりに続く桜の径”を観ていれば、「ああ、やっぱりここの桜並木はゴージャスやなあ、いつ来てもいっぱい花が咲いとるなあ」と思ったはずだ。
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ところが、なぜかいつものように心が弾まない。
最初はあまりにいっぱいの桜ばかり観すぎたのでとうとう飽きてしまったか、と思った。
しかしそうではなかった。
花の開花の具合などとは別に、それまで観てきた桜たちと比べて、賀茂川の桜は花の大きさ自体が小振りに見えるのだ。
ところがそれも違った。
結論から言えば、賀茂川の桜は全体に痩せているのだ。花の付き方も高野川のそれや白川の桜に比べてかなりバラツキがあり、枝そのものにも力がない。
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たしかに大きく太い桜で、いわゆる“老木”には違いない。だからそれなりに寿命だと言えなくもないのだろうが、だが素人判断ではあるが、高野川の桜も大きさや太さからすればほとんど樹齢は変わらないと思われる。
では、その差はどこからきているのか。理由はなんとなく理解できた。というのも、筆者は自宅で何度も桜の栽培に失敗していたからだ。
地植えもだが、鉢植えの桜はことのほかデリケートである。桜を育てる事に関して昔からよく言われるのが「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」だ。
ようするに桜は枝や幹を切った後にちゃんとケアしないと傷口から雑菌が入ってじきに腐敗や枯死が始まり、ヘタをするとそれがもとで枯れてしまう性質があることを言っている。
また、幹がそうであるように根もそうで、植え替えなどで傷むと生育は勿論のこと、いろいろと不調になりやすく、なんとか生きてはいても年々弱っていって結果的には枯れてしまうことも多いのだ。
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さきの格言ほどには一般化していないが、桜を育てようという人になら、実は桜は人を嫌う、ということが分かっている。
いや、もちろん遠くから眺めるのは一向に構わないのだが、桜にしてみれば、傍には来てほしくないのだ。まして枝はもちろん幹に触れられるくらいの馴れ馴れしい距離をもっとも嫌う。
厳密には…というか簡単に言えば、樹というより根を踏まれる事を嫌がるのである。根を踏まれ続けると徐々に弱って、ついには死んでしまうほどに。
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思い起こして戴きたい。白川、高野川、松ヶ崎。これまでたくましくまた華やかに咲き誇っていた桜たちに共通するのは、ほとんどが疏水の向こう側から見事にオーバーハングしていたはずだ。
そして、その向こう側───根元のあるあたりは人が日常的に歩けるような道にはなっていない。だから枝葉には触れられるほど、いや、彼女たちが差し伸べる満開の桜の枝の中に身体ごとどっぷりと入り込む事さえできるのに、人間が彼女らの足もとに無遠慮に根元を踏んだりすることはないのである。
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たとえば、上の写真の高野川沿い(川端通)の桜は土手の急な斜面に根を下ろしているので、誰も根の周りを歩きまわったり、あの見苦しいブルーシートを拡げて宴会など開くことができない。
通り道はその斜面のさらに下にあるので直接根を踏みつけることはない。そして斜面でない側は舗装路、しかも分厚めの歩行者道路になっているので、根はその頑丈なフタの下に護られているカタチである。
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…というと、賀茂川も同じようだが、上の写真をご覧いただければお分かりのように、賀茂川の場合は土手の上に植わっていても斜面ではなく少し向こう側の水平部分であって、さらに土手道は土のままで、人がいくらでも歩けるようになっている。
お手数だが、もう一度このページの一番上の写真をご覧いただきたい。そうして賀茂川の桜が根を下ろしている場所は、ほとんどが土の道であり、毎年々々毎日々々、筆者を含めて花見を愉しむ観光客、いや、河原の風情を愛する無数の人々が踏み固め続けているのである。
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おそらく成長過程にある“若い樹”ならば、勢いも手伝って根を踏まれても回復する事ができるので、ある程度の樹齢までは無事なのではないか。それが樹齢を重ね、成長緩やかな老木になると途端に、力尽きてしまう───。
賀茂川上流の『半木(なからぎ)の道』と呼ばれる、枝垂れ桜が哀しいほどに弱り果てているのも根を踏まれ続けたせいだとして、根をかばうために木道を渡すことで延命回復措置とされてからもう随分な年月が経つ。
たくさん咲き誇っているようでも、筆者が最初に観た時と比べて、明らかに賀茂川全体の桜は弱り、花と花の間隔はどんどん狭まり、あるいは花そのものも小さく少なくなっているように思う。
願わくばこの記事を読まれた方は、次から桜を愛でられる時は、どうか地面の下に張り巡らされた桜の根のことも意識してやって戴きたい。
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難しい事ではない。物言わず、何も求めない桜の樹といえども、植物という生き物である。
ぜひとも敬意を払ったうえで彼女らに臨み、ときに感謝し、ときに思いやって頂きたいのだ。
樹木の根は、地面を鏡として観たときに、まるで水面にその姿を映すように、枝と同じ長さのシンメトリックな状態で地面の下に拡がっている。だから枝が延びているエリアの下へは入らないようにするだけでもかなり違うはずなのだ。
誰だって、いくら慕われても足を踏まれ続けていたのではたまったものではない。
ましてや、気高き春の女王たちなのだから、たとえ万物の霊長といえども失礼があってはならないではないか。
《桜渡り:おわり》
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