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 いきなり、昔の写真からご紹介しよう。

 ここは、住所で言えば『堀川下之町』と呼ばれる、ちょっと北へ“上がれ”ば、今出川通りに出る位に洛中でも上の方である。(そりゃ、“一条”ですからね)もとの画像は例によって筆者のバイブル、『保育社のカラーブックス』に掲載された一枚の古い写真が筆者の京都探訪の原動力になっている。

 版権の関係で転載ができないのでモノクロ調スケッチに加工しているが、奥行きは人が二人くらいが通れる程度の橋で、鉄で出来てるらしい黒い欄干の透かしの向こうに和服コートの、品の良さそうな女性が唐傘を差しながら渡ろうとする、なんとも情緒ある写真である。

 一度も行ったことないのに、この風景にずっと惹かれていた。

 京都は千二百年間というもの、昔も今も大都会である。
 とはいえ、都が誕生した西暦794年には、高い建物も寺の塔と山々だけで、少し郊外を目指しただけでも、辺りは広々と開けた原野に近い様子だったに違いない。

 上の高札の文面を読んでいると、伝説と言うよりもファンタジーやオカルトがごっちゃになったトンデモナイお話の展開になっているが、なぜかそれが逆に「ああ、ほんまにあったんやろなあ…」と思えてくるから、京の都というのはツクヅク不思議な都である。
 もっとも、ロンドンっ子にしてみればロンドン塔の幽霊も似たような感覚で信じられるのかも知れない。

 とはいえ、今もどことなくひなびた雰囲気を漂わせている奈良、まして飛鳥などならば、容易にそんな風景が想像できるが、下の写真のように、今の近代的な京都、ことにビルだらけマンションだらけの洛中をうろつく限り普通の人なら考えもしないだろう。

 しかし筆者はおよそ普通ではないんで、マンションやビルが建ち並んでいても、たまに人影のない光景に出くわすと、ふと“平安の昔、この辺りは”いったいどんな風景やったんやろか…と想いを馳せてみたくなる。

 だがこれは……さすがに妄想レベルどころか、白昼夢なみの空想をしないとのめり込むのは難しい。

 ちなみに、じつは上の写真が今の『一条戻り橋』である。

 お分かりだろうか、石の頑丈そうな欄干があるのが。反対にこれがなければどう見てもタダのアスファルト道路だ。
 筆者もこれを目指して地図を睨んで道の本数を数えながら歩いてきてなかったら、絶対に見落としていたと思われる。なるほど、画面の左の方をしげしげと見ると、ちゃんと『戻橋』の文字が刻まれている。

 まあ、想像はしていた。

 なぜなら、橋の下にあるイカニモ人工の水路でござい、な溝は、今の『堀川』という川で、筆者が生まれた1961にはまだそれなりの川の体裁だったものが、1963年に“改修”と称して完全な“単なる大きな溝”にされてしまったのだ。
 以後、2009年に今のカタチに戻されるまでずっと堀川は無味乾燥でなにやら虚しい姿をさらし続けていた。

 なので、まあ水のせせらぎが戻ったのはよかったのだが、嫌な予感もした。

 案の定、実際に来てみると、最初の画像にあったような大正時代っぽい良い雰囲気の橋は、ご覧のようなやたら逞しい、それも気をつけていないと橋であることすら気づかないほど、道路と一体化した様ないかつい体裁になっていたのには流石にがっかりした。

 もっとも鉄が使われたモダンな先代の橋も大正11年にかけられたものだそうだが…個人的には、あの風情は残すべきだったと思う。ただの橋ではない、さまざまな伝説を思い起こさせるものだから。

 傍に階段があり、溝みたいなみてくれの堀川へ下りてみると、立派な銘板がしつらえられて、一条戻り橋の由来が紹介されていた。
 なるほど、上の写真はまさしく筆者が憧れたあの橋のようである。しかし単なる懐古趣味かも知れないが、ステンレスだかアルミだかの銘板よりも、たとえ風雨でカビたり腐ったり苔むしたりしようとも、木製の高札の方が似つかわしいと思うのは筆者だけだろうか?

 もっとも、そうしたセンスが微塵でもこの改修工事を担当した偉いさんにあれば、こんな姿にはなってなかったのに、と残念である。

 勿論、この橋だけが目当てでここまで歩いて来たのではない。

《つづく》


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