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たかがみね そのいち
鷹ヶ峯道路標識  筆者が京都に入れ込み始めたきっかけになった場所のひとつにこの鷹ヶ峯がある。
 単純な理由だが、この地名の優雅さ・かっこよさに惚れたとも言えるが、『ぶら旅』シリーズのテーマである、“閑かなる京都”そのものがここにあるからだ。

 よく「日本人の心の故郷」と形容される京都の京都たる所以は、“いつ来ても変わらないところ”だと言う。
 しかし実際にはその1200年以上の歴史に於いて、歴史の流れのままにいかようにも変わってきたからこそ、京都は今に至っても都たるのである。
 とはいえ、洛北の西、大文字山のやや北に位置するこの土地は、筆者が初めて訪れた30年近く前からそのたたずまいをほとんど変えていないように見える。事実、筆者の京都のバイブルとも言える、昭和49年(1974年)保育社刊行のカラーブックスの京都シリーズにある写真と比べてもそれほど差異を感じない。
 ただ、文章によるとその当時でも“めったに通らなかった車の往来がばかに多くなり”とあるから、今は推して知るべしである。

 筆者が初めて鷹ヶ峯を訪れた時は最も紅葉の美しい季節だった。
 やや陽も西に傾き、観光客も他にいない閑静な光悦寺の細い参道には、これ以上は望めないほどの秋色に染まった紅葉の並木が、ひとひとりがやっと通れる程度の細い石畳の参道に対して“とおりゃんせ”をしているかのような緋色のトンネルをこしらえていた。
 その事がどれほど幸運で、その時カメラを持っていなかったことがどれほど不運だったかは、その後何度重いカメラと三脚を担いで訪れてもその時のような美しい紅葉には二度と出逢えなかったことで思い知った。
 というのも、鷹ヶ峯へはアクセスポイントとなる千本北大路からバスに乗ることが多いが、そのやや北にある仏教大学あたりからいきなり急坂へとさしかかり、シートに背中を押しつけられるのを感じるほどの上り坂をひたすらウンウンと登り続けて、やっとこさと登り切ったところにあるのがいわゆる“鷹ヶ峯”なのだ。

 しかも地形に関係した風向きの加減か、山と言うほどの高さがないにも関わらず、鷹ヶ峯に育つ植物の生理には単なる標高の高さだけではないイレギュラーさが感じられる。だからいわゆる“平地”に比べて寒冷化の割合が実に読みにくい。春の桜にしてもひと月近くずれる。
 まして、温暖化のせいで筆者の好きな“真っ赤っか”状態の紅葉になるのが平地では12月にさしかかってしまうのが、こちらでは11月初旬になってくる。
 単純計算ではそうなのだが、残念ながら実際に訪れてみるとこれがなかなかうまくタイミングが合わない。早すぎたり、すっかり散り落ちていたり、たまたまタイミングがあってもその年は夏が暑すぎて葉がボロボロだったとか…
 だからこそ、数年ごとに訪れながらも、今回のようにマトモっぽく紅葉を撮影できるまでに20年以上の年月が経っているのである。ここらへんが京都ジモティでない哀しさである。

 そんな気候を逆手にとってか鷹ヶ峯では京野菜の畑がおちこちに観られる。余談だが、2003〜4年にかけて放送されたNHK月曜ドラマ『恋する京都』では、主人公と恋に墜ちる青年がここ鷹ヶ峯で京野菜を作っているという設定で、筆者もおなじみの畑が出てきたときには実に不思議な気分になった。

光悦寺参道
鷹ヶ峯マップ

 さて“鷹峯(たかがみね)”バス停で降りるが、ここにある観光ポイントといってもトップに載せた写真の表示板にあるように三つしかない。しかしシーズンにはびっくりするほどの人が訪れる。
 だがもちろん“ぶら旅流”攻略法がある。時間だ。筆者の場合は寺社の限界時間であるぎりぎり、15時あたりを狙う。朝早くという手もあるのだろうが、試したことがないので実行された方はぜひ結果をお教え願えれば幸いである。

 鷹ヶ峯は平安の昔、朝廷お掛かりの狩り場だったという。そのため江戸時代まで人が住み着かず、京の街としては新しい部類になる。ではなぜここが開けたかというと、鷹ヶ峯のシンボルとも言える“光悦寺”に名を残す、本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)が徳川家康にこの場所を賜って、ここら一帯に陶芸家や書家などを伴って住み着き、今で言う“芸術村”を開いたことに端を発する。

 この光悦という人、もともと本阿弥家が代々名の知れた刀剣の研ぎ師であった関係上、名代の刀剣の鑑定士でもあった。なんといっても刀剣バージョンの千利休というか、彼が折り紙をつけないかぎりどんな名刀も値打ちが出ないと言われるほどだったそうだ。

 それほどの名声を得た場合、小人物なら安物でも適当に鑑定するなどして金儲けに走りそうなものだが、こすっからいマネや不正を徹底的に嫌う清廉潔白の士だったことでなおさら彼の鑑定に箔がついたという。
 その上書画に陶芸、工芸などにも長じた稀代の芸術家だった。骨董マニアでない限りあまり馴染みがない人物かも知れないが、吉川英治原作の『宮本武蔵』では天下統一なったばかりの江戸で武蔵の芸術家としての一面にインスパイアを与えるというような役柄で登場する。

 そんなキャラクターのためか、過去には石坂浩二氏などのようなやはり気品とインテリジェンスを漂わせる役者が演じている。
 それはさておき、その光悦が八十歳で没した後に、もともと本阿弥家の位牌堂だったのを本堂として、これを以て光悦寺と号したらしい。

 右の写真こそは鷹ヶ峯そのものである。光悦寺邸内にある立て札によると、この『鷹ヶ峯』のほかにさらに右へ『鷲ヶ峯』『天ヶ峯』と並んでいる。

鷹ヶ峯高札 鷹ヶ峯
光悦垣
 その光悦寺はバス停から西へ2〜300メートルだけ水平になっている道をゆけば、小学校と向かい合わせになって小さな門が見つかる。この門をくぐると、運さえ良ければ筆者が恋焦がれたもみじのアーチが出迎えてくれる。
 ただし、先にも書いたように車の往来があるので、運よく出逢えた美しいもみじに夢中になるあまり、うっかり事故に遭わないように注意して欲しい。
 光悦寺のシンボルともなっているのが左の写真の光悦垣。太い竹を斜めに組んだ独特のデザインの垣で絵はがきなどでは必ずこれが使われるが、ローアングルで撮られることが多いためか実際に見ると思いの外小さく感じる。
 とはいえゆったりした曲線を三次元的に描くそれは、侘び寂びを越えてむしろ一種の現代的なアーキテクチャーを感じさせる。
光悦寺境内の茶室

 庭には写真のようなさまざまな意匠の茶室が点在しているためか広さは感じないが、適度な起伏もあるうえに、見上げれば木々の間に鷹ヶ峯・鷲ヶ峯、天ケ峯の三峯を借景にした面白いつくりである。
 ちなみにここら辺一帯を鷹ヶ峯とは呼ぶが、実際には西側にそびえるなだらかな峯こそが鷹ヶ峯であり、追い剥ぎやら山賊が出没したと言われる平安の昔には長坂口と呼んでいたようだ。そもそも貴族文化華やかなりし頃、京都御所はこの鷹ヶ峯から坂を下った千本通(せんぼんどおり)をさらに南へ下がった所にあった。つまり千本通こそがもともとの“朱雀大路”でいわば都のメインストリートであり、このルートは都から海のある丹波への出入口つまり“鯖街道”のひとつで真夏には氷室から氷を運んだりもした交通の要衝だったのである。


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