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  たかがみね そのに

 さて、鷹ヶ峯のもうひとつのスポットがこの源光庵。ここも秋に訪れると、いつも黒い山門に背の高いススキの美しいコントラストが出迎えてくれる。昔はここへ至る参道が細い石畳でつづれ折りになっているのがチョット粋だったのだが、増え続ける観光客のためにか駐車場を拡張して、境目にあった生け垣が無くなったために妙に開放感が出てしまい静かなつづれ折りの小径という風情はなくなってしまった。
源光庵
▲このアングルからだと、ちょっとオドロオドロしい雰囲気も…
源光庵参道
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源光庵山門
 この寺にはふたつ有名なものがある。ひとつは外の駐車場にも高札になって表示されている、“血天井”である。名前はおどろおどろしい。文字通り、本堂の天井には人間の血のシミのついた板が張られているのだ。
 だからといって別にオカルトを狙ったものではない。これも話は長くなるが、徳川家康がまだ松平竹千代と呼ばれた幼い頃、彼は駿河の有力戦国武将だった今川義元の人質だった。その頃からいわゆる“ご学友”として、同年輩の子供たちも数人が同じく人質として今川家に居候していて、その中にのちの鳥井元忠という武将になる少年がいたわけだが、彼は家康と共に戦乱の世を生き抜くこと数十年。いわば肉親との縁が薄かった家康の数少ない幼なじみであり、家康が心を許せる友人・兄弟以上の存在だったに違いないが、齢62歳になった彼は、関ヶ原の戦を前に徳川軍の囮となって伏見城で玉砕を遂げる。
 その時自刃した鳥井元忠以下三百数十人の士卒の魂を供養するために、当時の床板をこの源光庵など数寺の天井板として使い今もなお残っているのである。
 心優しき読者諸氏がこの天井板に気付かれた際は、主君の目的のために生命を賭した彼らのために黙して祈りのひとつも捧げていただければ幸いである。
源光庵血天井
源光庵血天井
▲血でかたどられた手形(上)と流れ出た血でその倒れた姿を写し取った“もと”床板(右)
源光庵須弥檀
 そしてこの寺のもう一つの名物が“悟りの窓”と“迷いの窓”。四角が迷いで丸が悟りを表すという。ご覧のようにふたつの窓からは美しく色づいた庭が見て取れる。
 本来は修行のために座禅でも組むためのものなのか、須弥檀の横というチトけったいな位置関係にある窓の前には広いめの板の間があるが、観光客が入れ替わり立ち替わり記念写真を撮るので修行どころか、なかなか落ち着いた気分にすらなれないのが現実である。(写真下)

 ちなみにこの写真を撮影している真上に“血天井”がある。
 先の写真のような手形や人のカタチの他に、もともとが床だったのだから当然ながら足跡も多いが、いわゆる足袋を履いていることまでしっかり刻印されている。

迷いの窓
悟りの窓

源光庵渡り廊下上  鷹ヶ峯にはもうひとつ、『常照寺(じょうしょうじ)』があるが、あいにく筆者はいつも夕方、それも寺社仏閣のラストオーダー時間を狙って鷹ヶ峯を訪れるために時間切れで行ったことがない。
 とりあえずネタだけをここに書いておくと、常照寺は稀代の花魁(おいらん)吉野太夫の墓があることで知られている。
 かの本阿弥光悦が寂照院日乾上人を招いて土地を寄進して開いたとされ、光悦の導きもあって吉野太夫もこの寺に帰依したとか。そのへんのからみもあってか、先にも紹介した吉川英治版『宮本武蔵』では、修行一途で女性すら知らずにいた武蔵を優しく導いてくれる女神のような存在として吉野太夫が登場する。
 実際、当時の花魁たちは茶道華道は勿論、書に音曲に詩歌や謡(うたい)など諸芸・教養に長け優れたインテリ階層であると同時に、ビジネスとは言いながらも客にとって菩薩様のように情けを注ぎ愛で包んでくれる上に義理人情に厚かった憧れと羨望の存在だったらしい。
 その中でも吉野太夫は江戸時代のはじめに活躍?したピカイチの伝説的な存在だったと伝えられる。
 そんなわけで高尾太夫と共に、講談や劇などさまざまな恋物語のモデルにもなった。
 ちなみに時代劇で遊郭として最も知られる江戸の吉原は、家康の命で江戸のまちづくりの際に京都の島原からスカウトされ誘致された名うての妓楼がはじめたものである。

 聞くところでは秋の紅葉・春の桜ともに美しいらしいので後日訪れた際にはまた加筆したいと思う。
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