よる年波のせいか、十年ほど前からやたらと桜が好きになった。好きと言うよりも憧憬に近いかも知れない。キュウと胸が締め付けられさえする。筆者のDNAが反応していると考える所以である。
もともと植物は好きだったが、若い頃は特に桜だからどうこう、という思い入れなどはなく、ましてや筆者はもともと人混みと祭り騒ぎが大の苦手で、個人でも勤め先でも花見には参加しなかったから尚更桜には縁がなかった。
だが、なんやかんやあったりして自分の行く末や生き死にを意識し始めるようになると、桜という花は突然人生の中に存在感を持つようになるものらしい。
この記事をご覧の若い方はいかがだろうか。いや、中年の方でもそうだが、毎年親しい仲間と花見に出かけていても、頭上に枝も折れよと咲き誇る桜の花をいくらかでも味わい愛でておられるだろうか?
もちろん若き日の筆者も単純に「キレイだなあ〜」と思ってはいたし感動もした。でもそれは通りすがりのほんの一瞬で、今のようにまぶたに焼き付けるようにシゲシゲと眺めていた記憶はない。
そういう意味でも、ああ、今年も見事な桜が観られたなあ、そして同時にいつまで観られるんだろうかとか、来年も無事に観られたらいいなあ…などと感慨無量に思うようになると、トシを喰ったのだと言うことができるのだろう。
だからといって年を喰ったこと自体はむしろ喜ばしいと感じている。
やっと桜の良さをはじめとする森羅万象の美しさ、ありがたさが感じ取れるようになったのだ。たとえ若返ることができるとしても、筆者の若さには、この心と引き替えにするほど値打ちがあるとはない。
いずれにせよ一年で二度も桜が拝める、しかも背景に紅葉を従えるとあれば、それを肴に一献かたむけないのはもったいないというものである。今年は少し酒をたずさえて出かけることにしよう。