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あきのさくら〜ひらのじんじゃ〜
  日本は桜の国である。ご意見はあるだろうが、あえて言い切る。花の時期は一年のうちわずか二週間程度しかないにもかかわらず、自分がニッポンジンだなあ、と遺伝子レベルで実感する花は他にはなかなか思いつかないからだ。

 ご存じのようにひとくちに桜と言っても実にバラエティに富んでいる。一重、二重、八重、色も桜色、白、濃いピンク、二色咲き分け、黄緑色、小輪、大輪など花を愛でるもの、サクランボができる食用種も花はごく普通の桜と変わらず可憐だ。さらには野生種まで、ヨソ様のサイト『桜の雑学辞典』によればざっと三百種はあるという。

 我が家にも筆者が生まれた年に父親が植えてくれたという八重桜がある。本当は二本あった。十年前に家を建て直したときにやむなく一本を伐ったのだが、無理しても植え替えるべきだったと今も後悔している。
 母によれば植えたときにすでにそれなりの大きさだったそうなので、樹齢で言えばすでに五十年は経っているはずだ。
 そのほかに昔、大阪造幣局の通り抜けで一目惚れした、鬱金(うこん:通称“黄桜”)という薄緑色の八重桜も植えてあるが、こちらはまだまだ小さい。そして日本で最初に咲く沖縄の桜、ラッパ型で濃い緋色が美しい寒緋桜(かんひざくら)がある。
 そして永らく欲しくて欲しくて、やっと今年の春に入手した小さな桜の苗木が一本。


 それが今回ご紹介する“十月桜”とも“彼岸桜”とも呼ばれる、秋に咲く桜たちである。それぞれ名札を下げて別物として園芸店で売っていて、かたやピンクで野性的な花かたち、かたや桜らしい色合いと形だが咲く時期だけが秋、というものであるが、筆者があちこちで見た限りではどちらがどちらの呼び名なのかイマイチはっきりしない。
 たしかなのは、秋咲きの桜にも数種あって、いずれも細ぶりな枝に小輪の花が咲くということだ。品種によっては春にも咲く二期咲きもあるらしい。

 京都は桜の名所が数々あるが、この平野神社は数年前にも紹介した“ちょっと穴場ちっくな”桜の名所である。
 予備知識を得ようにもなかなか平野神社のことを詳しく書いた本がみつからない。旅行系のガイドブックにも、お隣の北野天満宮しか紹介されていないし、そちらも梅がメインなので秋の紅葉をテーマとした本にはまずふれられることはないようだ。
 かくいう筆者も、経路は忘れたが他の紅葉ポイントを数珠繋ぎ的に散策しているときにふと『平野神社→桜の名所→だったら秋咲きの桜もあるはず』という発想で立ち寄ってみただけである。
 すると、さすが京都屈指の桜コレクションだけのことはある。あった。それも4〜5メートルはありそうな、なかなか立派な桜が。
 撮影したのは11月の26日だが、真っ赤な楓を背景にして見事に満開である。


 写真で見てもそうだが、桜イコール“春の象徴”という先入観のお陰で桜のバックに紅々としたもみじと朱の鳥居という取り合わせはなんとも不思議に見える。
 あいにく秋咲きの桜は小輪なため、これほどの大きさの樹の満開時でも実に楚々としておとなしい印象だ。だが寄って眺めてみれば花の一輪一輪は細めの花弁が密に寄り添うような姿で、まるで花かんざしのように可憐で華やかなことに気づく。

 もともと通り抜けしやすい道の付け方をしてある神社なので、ふだんからジモティの散歩道になっているものの、やはり北野天満宮の裏手的な立地のためか、花の季節以外はほんとうに静かな神社である。まして紅葉の季節はこの一連の写真の撮影中もほとんど人が通らないほど旅行客と無縁になっている。
 おかげで見事な紅葉もほんとうに落ち着いてゆったりと愛でることができるのである。
 しかも桜のオマケ付きだからおトクというものだ。

 よる年波のせいか、十年ほど前からやたらと桜が好きになった。好きと言うよりも憧憬に近いかも知れない。キュウと胸が締め付けられさえする。筆者のDNAが反応していると考える所以である。
 もともと植物は好きだったが、若い頃は特に桜だからどうこう、という思い入れなどはなく、ましてや筆者はもともと人混みと祭り騒ぎが大の苦手で、個人でも勤め先でも花見には参加しなかったから尚更桜には縁がなかった。
 だが、なんやかんやあったりして自分の行く末や生き死にを意識し始めるようになると、桜という花は突然人生の中に存在感を持つようになるものらしい。

 この記事をご覧の若い方はいかがだろうか。いや、中年の方でもそうだが、毎年親しい仲間と花見に出かけていても、頭上に枝も折れよと咲き誇る桜の花をいくらかでも味わい愛でておられるだろうか?
 もちろん若き日の筆者も単純に「キレイだなあ〜」と思ってはいたし感動もした。でもそれは通りすがりのほんの一瞬で、今のようにまぶたに焼き付けるようにシゲシゲと眺めていた記憶はない。
 そういう意味でも、ああ、今年も見事な桜が観られたなあ、そして同時にいつまで観られるんだろうかとか、来年も無事に観られたらいいなあ…などと感慨無量に思うようになると、トシを喰ったのだと言うことができるのだろう。

 だからといって年を喰ったこと自体はむしろ喜ばしいと感じている。
 やっと桜の良さをはじめとする森羅万象の美しさ、ありがたさが感じ取れるようになったのだ。たとえ若返ることができるとしても、筆者の若さには、この心と引き替えにするほど値打ちがあるとはない。
 いずれにせよ一年で二度も桜が拝める、しかも背景に紅葉を従えるとあれば、それを肴に一献かたむけないのはもったいないというものである。今年は少し酒をたずさえて出かけることにしよう。

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