花、ことに植物は祖母の影響で大好きである。うちには私の誕生を記念して植えたという楊貴妃という品種名の八重桜まである。逆にそのせいで一重の桜が見劣りするものだと勝手に決めて掛かっていたのかも知れない。考えれば実にもったいないことをしてきたものだが、その美しさに気がついた以上あとは死ぬまで桜を毎年愛でることにしよう。
彼方に見えるのは葵橋。見える限りの彼方まで桜並木が続く。期待に胸が膨らむ瞬間である。
だから出町柳で下車し、加茂大橋から北を見て充分に桜が開花していなければ桜はあきらめて他を観光すればいい。京都の桜は賀茂川だけではないのである。運良くもし丁度見頃だと思ったら河原へ降りてゆっくりと散策すればいい。そして北大路橋までやってきてさらに北を眺め、濃いピンクの雲が河原に懸かっていたらおのが幸運に頬を染めつつさらに足を伸ばせ ばよいのである。 しかしこの枝垂れ桜はいま“樹のお医者さん”たちによって再生の施術中である。樹そのものが年を取ったということもあるが、公害など様々な要因で地力が落ちてしまって生命力そのものが弱ってきているのだそうだ。詳しくは現場にある立て札に書いてあるから必ず一読されたい。桜はけっして人に見てもらうために咲くのではない。人は桜に花を見せてもらっているのである。これも環境問題を考えるイイ機会である。
“本当の悪人とは悪気がなくて悪いことをしている人のことだ”という解釈は正しいと思う。 本人のエチケット云々を問う前に、そもそもモラルそのものを持ち合わせていない人間を育ててしまった親に責任があるし、そうした人物に対して親に代わって“叱ってやる”優しさを持ち合わせたい。
花見客もいるにはいるが、興ざめな焼き肉のにおいで迷惑にならないようにちゃんと風の流れにも気を使い、カラオケなど無粋なことはされていない。川と同じで人も移動し、流れていてよどまないのがいいのだろう。その点、桜は見事ではあるが花見宴会のビニールシートで足の踏み場もない円山公園の桜とは趣がずいぶん違う。 小さな土地にしがみつく日本人のセコさと、土地に縛られない遊牧民族の悠然さの対比のようである。
ちなみに筆者は飽き性なので一本の桜では満足できない。だから500mlの空きペットボトルにお気に入りの日本酒を入れて、見渡す限り続く桜を一本一本愛でつつ、そぞろあるきしながらちびちびと飲むのが好きである。これだと一日に数百本の桜が見られるし、場所をひとりじめにしないので人様の邪魔にもならない。さらには歩きながら飲んでいるので足に来るほど酔うこともない。なかなか風流で粋な妙案だと思われないか?