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おおはらのじんじゃ
 金蔵寺を出ると、直線距離では大原野神社まではそれほどではない…が、山の中のことである。実は下り坂ではあるが、けっこう急な坂が待っている。
 とはいえ、前回末尾に写っていたような自然道ではなく、やはり立派な舗装路なので、テクテクと歩いていれば問題はなく、じきに民家が現れる。学校へ通う子供たちのための看板も見つかる。これまでの人の少なさがウソのように人の気配が戻ってくる。

 とくに書かなかったが、道はまず間違いなくず〜〜〜〜っと一本道である。金蔵寺へ向かう道が分かれている程度で、道に迷うことはまずないと言って良い。寄道をして元の道へ戻るたびに反対側へ歩き始めるほどの筋金入り方向音痴の筆者が言うのだから間違いない。
 だが、さすがにどんどん下りてゆくと道が分かれはじめる。途中にはこんな素敵なレストランも見つかった。『昼夜各1組限定のお店』なんて、思わずいろいろとドラマチックな展開を思い描かずにいられないコンセプトである。
 畑のかたわらに無人販売所もあった。こちらは一般的なホコラ型。ログハウスちっくなつくりがイカニモ感を盛り上げてくれる。新鮮でみずみずしい野菜は青物大好きな筆者にはたまらない誘惑だ。こちらも作った人、買ってゆく人を思い描くといろいろと楽しい。
 安かったり掘り出し物も見つかるのだが、問題はいいな欲しいなと思っても、かなりカサが高いので歩きではおいそれと持ち帰れないことにある。最初からリュックサックでも用意しておけばいいのかも知れないが。

 大原野神社に着く。おおきな石の鳥居が目印である。すぐの石段をはさんで覆い被さるようにもみじが植えられている。こちらもすでに散り紅葉だが、もともとボリュームがあるので12月8日でもまだまだ残っている。

 今回で四度目になるが、初めてここを訪れたのはもう四半世紀も前になるだろうか。その時は阪急長岡天神駅から直接ここへ歩いてきた。どんな神社かまったく知らずにやってきたのだが、紅葉のもっとも美しいときですごく感動した覚えがある。

 ところが二度目は深読みしすぎてタイミングを外した。今回は紅葉的には悪くないが、本殿の修理中だった。
 皆さんもご経験おありだろう。せっかくの想いで訪れたのに、京都の観光スポットはけっこう修理中とかに出くわす。
 毎回思うのはその修理中の姿があまりにもブサイクであることだ。不細工というのが悪ければ、無粋、情緒がないというべきか。
 特にあのブルーやグレーの無機質なシートと鉄パイプの醜い足場、なんとかならないものだろうか。

 歴史的な古さがデフォルトである以上、修理点検は必然の通過儀礼であるが、都全体が世界的観光地であるからには、修理に取りかかる時期をずらすのも方法だろうし、それが無理でも国や自治体の肝煎りでもう少し景観に配慮した用具の開発をしてみてもバチは当たるまい。
 大昔は竹や木材を組んだものにヨシズやムシロ掛けだったからそれほど違和感はなかったはずだ。
 防音、防水のためのシートが必要なのは判るが、色や素材を工夫すれば修理中でもあの見苦しくどぎつい姿に墜ちずに済むのではないだろうか。
 コストがかかるのは当然だが、逆にそうした手段を開発すればマスコミもとびつくし、そうなれば黙ってても全国から仕事がどんどん転がり込むのに違いない。結果的に儲かるのだから先進の気鋭がある建築業者は絶対にやるべきである。
 話が脱線したが、ここも縁起は784年とあり、長岡京遷都のおりに遷都の命を下した桓武天皇の后の願いによって奈良の春日大社から分霊を受けて大原野に祀ったのが始まり…というから春日大社京都支店?というか各種行事のための出張所みたいなノリと考えて良いと思う。

 ウィキによれば、京春日(きょうかすが)の別称がある、とも記載されている。だから神社のシンボルは鹿であり、境内の中心に大きな池がある。ただし奈良のは猿沢の池と名付けられたが、ここは鯉沢の池である。
 なぜおおもとが春日大社かというと、桓武天皇の后は藤原氏の出であり、藤原氏の氏神が春日大社だったためだそうな。

 都が平安京へ遷ってからも、藤原氏に女子が産まれると「皇后や中宮になれますように」とここに願を掛けに来たという。その後の平安時代を通じての藤原氏の大繁栄を考え合わせると、大原野神社の隆盛もかくやと思われる。(徳川将軍家は上賀茂神社の氏子であったため、上賀茂神社の紋である葵を定紋にしていた。時の権力者がパトロンについた寺社は強大である)逆に、応仁の乱で平安貴族の権力が失墜してからは同じように衰退してここも荒れ果てたというのは、先の金蔵寺や善峰寺をはじめとする多くの寺社と同じ運命だったといえる。


 そもそも寺や神社は清水の井戸なり泉などの飲み水があり、軍勢が集まるに適度な広場と、雨露と敵の襲撃をしのぐために都合のよい、広くて頑丈な屋根のある建物がある。これは戦の時の臨時の砦として実に都合が良い。いや、もともと侍というのは大きな寺社が自分の領地を護るためのガードマンとして養成したことに始まるのだから、寺社が要塞化するのは必然だったことになる。
 大坂城でさえ、もとの敷地は本願寺であり、寺でありながら堅固な要塞でもあった。
 当然、戦闘になれば標的になるし、維持できなければ敵に渡す訳にいかないので真っ先に焼かれ破壊される運命にある。

 破壊されてしまうと戦の拠点にはならないが、今度は焼け残った屋根や建物が難民の避難所になる。

 乱の当時の荒れた寺社の様子は司馬遼太郎の『箱根の坂』や黒澤明の『羅生門』などを観るとよく判る。崩れた築地塀を乗り越えて境内には野武士や流浪の難民が住み処を求めて流れ込み、夜な夜な京のあちこちで人が襲われ殺される声が日常的に聞こえ、道と言わず野といわず無惨なむくろが転がってうち捨てられているような有様が描かれている。そこからは疫病が蔓延する。それでまた人が死ぬ。
 なんのことはない、坊さんがわざわざ説教で説くまでもなく、その頃は人々が生きる現世こそがそのまま地獄絵図だったのである。

 そんな状態から抜け出しはじめるのは信長が京都の再建のために寺社へ多額の寄付などを始めてからだという。
 ものの本によれば、のちに秀吉や徳川政権になってさらに多くの寺社が復興されていったとある。
 金蔵寺や善峰寺を復興させた桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)の宗教狂いは有名だったようで、彼女に限らず、後生を願ってのためか、そうした“寄付マニア”みたいな金持ちが多くいたようである。
 しかしそれに至るまで、応仁の乱からはじまる約100年にわたる戦国時代、少しは落ち着いた期間もあっただろうが、破壊された寺社や街はずっと荒れ放題に近い状態だったと考えると、いたたまれないものがある。

 それも今は往時のこと。伝統ある春日大社の分霊社であるだけに、普段の落ち着いた雰囲気からは想像がつかないほどの大がかりな神事が節季ごとに盛大に催されるそうだが、たいていは平日であり、立地的にも筆者が実際に観るのはなかなか難しそうだ。

 ここからまた山側へ上がってゆけば、西行桜が名物の通称『花の寺』もそれほど遠くないのだが、ご覧のように陽も傾き、帰りの駅である阪急長岡天神駅まで歩くにはまだけっこう遠いので、今回はこれで“とっとこハイク”を終えることにした。


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