『ぶら旅』トップページへはまたはこちらから→ ■■■/*TOMZONE-S SHOWメインブログはこちら→■■■


ふしみいなりのたのしみかた そのに
 さて、鳥居のプロファイリングにも飽きてくる頃、メインストリートを外れてひょい、と首を出してみる。
 あまりに行儀よく居並ぶ鳥居の無限ゲート。ふと外へ足を踏み出してみるのも面白い。ただし、鳥居がなんらかの結界を表すものだとしたら、そこから不用意に足を踏み出す事で何らかの事柄がアナタの身に起こっても自己責任でお願いしたい。

 ───冗談はともかく、友人とくっちゃべりながら何も考えずに単に通過するだけならば無数の鳥居は単なる記号の羅列にすぎないが、ふと自分と会話したり、稲荷山に立ちこめる精気を感じた途端にそれはマジカルなシンボル群に変わることは確かである。
 なるほど鳥居を作りだしたのはヒトだが、素材の材木は自然のなせる技、生み出されたデザインは二千年に近い必然と淘汰の結果である。そこになんらかのチカラが宿っていない方が不自然というものだ。


 親子連れや友人同士連れだっての外国人観光客も多数いたが、彼らはどういうガイドを読んでこんなところまでやってきているのだろうか。
 たとえば、世界遺産などを目当てに海外へ出かけた日本人が、その国のことを記したガイドブックのうち数ページのみに書かれただけの、薄っぺらな記事と実物だけを観て、ひととおりの感心だけをするのと大差ないのだろうか。
 日本人でさえ不思議で異様でさえあるこの空間を、はるか数千キロの彼方から訪れた旅人の心に何を残すのだろうか───などと考えてみる。
 残念ながら彼らとコミュニケーションを取ってそれを事細かに尋ねることは語学の問題もさることながら、人見知りして引っ込み思案の筆者には叶わない。

 しかし、いにしえより無数の日本人が神に祈りをささげるために築き上げた不思議な空間と、逆になんの感動もないままに、同じ民族、おそらくは同じ仏教徒でありながらも、単に名物の観光だけを目的に同じ空間へ訪れる日本人が居るという奇妙な組み合わせに首をかしげているかも知れない。


 ところで稲荷山には連なる鳥居の参道のメインストリートから外れた場所にも大小多数の社と神社がある。
 大寺院の塔頭にも似ているが、寺と異なるのは社ごとに祀られる神様の“お役目”の存在である。むろん仏教でも観音様や毘沙門天、不動明王など、祀られるご神体(はて、仏様の身内でも神体でいいのだろうか)によって祈りや願いの受け持ち分担はしているが、神様の場合は恋愛、防災、招福など願い事がもっと具体的で俗世的である。
 その端的な表れのひとつに“お守り”や“お札”がある。

 仏様系をキャラクターにすることは罰当りという気がするが、もともと神社ごとに“神様お使いの動物”というキャラクターがあり、当然のことながらそれらはシンボルとなっておみくじやお札、お守りといった『グッズ』展開されることになる。
 グッズなどと書くと恐れ多いが、現実に金銭で売り買いされる以上、神聖さはともかくもキャラクターフィギュアとなんら変わる所はない。当然、洒落たもの、可愛いものは売れるし、悔しいがじっさい欲しくなる。
 伏見稲荷のお山へ入る時、まず目に飛び込んでくるのがふたまたに分かれた鳥居のトンネルである。
 いずれを通ってもまず最初に行き着くのが下の『白狐社』で、いわばお山のチケット販売所みたいな位置づけなのだと思うが、たしかにコジャレたグッズを多数販売しているのである。


 上の写真左は自分で顔を描き足して奉納する白狐の絵馬で、奥に写る絵馬堂?には千差万別の“顔絵馬”が連なっている。
 右上はデザインも豊富なお守りの数々で、しっかり『奥の社だけのお守りです』のPOPで商品のオリジナル性、限定感訴求のアピールを怠らない。筆者も右下の二種類を買ってしまった。
 ただし“価格”ではなく“初穂料”と記され、お守りが置かれた同じ台にしつらえた容れ物にお金を入れて持ち帰るセルフサービス式。
 だからそばにある社務所の巫女さんから「お買い上げありがとうございました」の言葉はない。

 ちなみに山の入り口では高さ数メートルもあった鳥居が、この奥の社に近づくにつれてどんどん小さくなる。密に立っているのでトンネルの中は薄暗く、逆に光が差し込む所は朱色に染まっていて、その先にこの奥の社が白い光の中に見えるという作りだ。
 もしかすると一種の胎内くぐりの意味合いがあるのかも知れないが意図的にそうしたのか、いつのまにかそうなったから更にそれを進化させたのか。
 広場のようになっている奥の社を抜けて、ふたたび鳥居のトンネルを少し進むと途中で鳥居が途切れる場所が現れる。

 ふと見ると真新しい立て札(左上の写真)が立っていて、丸太を埋めた杣道(そまみち)が脇の山の方へ伸びている。地図を見るとなるほど、この先にも『神寳神社』という神社があるらしい。

 ●地図(クリックで今回のルート地図を別ページで開きます→■■■

 クヌギやシイの木の落ち葉で埋まる坂を登ってゆくと、門前にパッチワークのようなものを吊った板と石造りの鳥居が見えてきた。近寄ってみるとそれは願い事の書かれた無数の千代紙の紙雛だった。
 しつらえられた但し書きによると“かなへ雛”といい、災難除けの身代りお祓いや縁結び、立身出世に霊験あらたかだそうである。写真では隠れているが、男女がこうべを垂れている目線の先にはこのお雛様とサインペンが置かれていて、願い事を書くようにしつらえてある。

 境内はこぢんまりとしているが、ご覧のように真新しい立派な拝殿があって、左右に狛犬ではなく天龍と地龍というこれまた真新しい二匹の龍が鎮座している。だが小さいがちゃんとした社務所もある神寳神社の縁起は古いらしく、伏見稲荷の誕生と時期を同じにしているそうだ。
 さらに少し離れた隣には龍頭大神を祀った『龍頭社』という祠(ほこら)もあり、そこにはいわくありげな絵馬が多く懸かっている。

 なるほど…と、ひととおり見たのでそのまま来た道を戻ろうとすると、ふと目についたのが社務所の小さな窓の横にしつらえられたのが神寳神社のお守りである。

 柄が変わっているので撮影だけしてゆく人が多いのか“撮影ご遠慮ください”の但書が添えられたそれは、筆者にとってはすごく気になるものであった。一度はもとのコースへの道半ばまで戻ったものの、結局きびすを返してそのお守りを求めることとなった。
 というのはその柄、おられた宮司さんに尋ねると案の定『隼人の盾』と呼ばれるもので、弥生の昔に名もなき兵士が使っていたとおぼしき木製の盾に描かれた紋様だったのである。

 数十年の昔、奈良平城宮跡の泥の中から発見されたにもかかわらず、周りはともかくも描かれた紋様をしっかりと残していた不思議にあやかったとのこと。
 実は筆者、それまでは歴史に興味などなかったのだが、1987年に京都国立博物館で開催された『日本の甲冑』展で、隼人の盾と同時代に使われたとおぼしき木製の鎧を見て以来、着用した人も、作った人の名もなく由来やいわくさえも残っていない、でもたしかにそれを使っていた人の存在を静かに伝えるそうした遺物にたまらなく哀愁を感じるようになったのである。 

 はるか二千年の昔に九州の地から畿内の戦に赴く兵士の厄除けのためにと盾に描かれた紋様が、回りまわって伏見のお山のすこし外れた場所の神社で交通安全のお守りに使われる。縁とはかくも不思議なものだが、2000年の時を経てもなお活用されるデザインを生み出した、これまた名もなき人のセンスに脱帽である。


 《伏見稲荷の楽しみ方:その一へ戻る→■■■ その三へつづく→■■■》   ■ぶら旅トップページへ
▼伏見稲荷付近の地図はこちらから▼