勧修寺を訪れたあとは、すぐに醍醐道まで出てしまわずに必ず少し南へ下がっていただきたい。
佛光院という小さなお寺がある。お寺と言っても失礼ながら勧修寺の氷室池を借景としたこぢんまりとしたスケールで、検索してもヒットするのは他の地方の同名の寺か東山の山向こうにある『佛光寺本廟』くらいで、ここをとりあげているブログやサイトはほとんどない。
筆者もGoogleMapを見るとたまたま勧修寺(かじゅうじ)のすぐ近くにあったために、せっかくだからついでに通りすがってみようと思ったにすぎない。
だが、小さいながらも上品な本堂?の傍らにあった由来書きの高札を見て絶句した。
以下、書かれた文章を転記する。
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佛光院
当院は、昭和26年(1951)四月、かつて勧修寺(かじゅうじ)の塔頭があったと伝えられる由緒ある地に、大石順教尼(じゅんきょうに)によって再興建立された寺院である。
順教尼はもと大阪堀江の名妓で妻吉(つまきち)といったが、明治38年(1905)六月、中川万次郎六人斬り事件の巻き添えとなって17歳の身で両腕を斬り落とされた。
この不幸のどん底から数々の苦難を乗り越え、求道者として出家得度し、犠牲者の追善と共に身体障害者の救済に生涯を捧げた。
両手のないままにクチに筆をくわえて書画を描き、非凡な才能を示し日展に入選、また日本人として初めて世界身体障害者芸術科協会の会員にも選ばれた。
ここ佛光院にあって、順教尼は全国身体障害者の母と慕われてきたが、昭和43年(0968)四月、奇しくも遭難したのと同じ日の21日に入寂した。享年81歳。
何事も 成せばなるてふ 言の葉を 胸に刻みて 生きて来し我れ 順教尼
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読み終えて筆者はその場にしばし立ち尽くした。日本にもこんな方が居られた事をまったく知らなかった。
高札には記されていなかったが、とある記録に依れば彼女を斬った万次郎は養父であり、妻の浮気を勘ぐった挙げ句酔った勢いでもうひとりの養女を含む家族6人を次々と斬り殺したとある。
万次郎の日常に関しては二極論があって定かではないが、順教尼は自分を地獄に突き落とし、結果的に死刑に処せられた万次郎も含めて公平に家族の菩提を生涯ねんごろに弔ったという。
余談ではあるが、筆者はかつて右目を失明しかけた事がある。今も後遺症はあるが幸い生活に不便はない。そのせいもあって、もし視力を失ったら、もし片腕、いや、指一本さえ失ったらどんなだろうかという恐ろしい妄想に囚われる事が少なくない。
日常だけでなく日々絵を描き、文字を打ち込み、とにかく両腕・両の手に世話にならずにはいられない生活。
順教尼のような目に遭って正気でいられる自信はない。ましてや、加害者を赦すなどありえないだろう。
だが、彼女の生き様に学ぶ事は不可能ではないはずだと思いたい。
そんな出逢いがあったこと自体、筆者にとってのひとつの教えだったのだと思う。
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