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大石神社は1200年の都、京都にあってはとても新しい部類にはいる。飛行神社も明治24年(1891年)と新しいが、こちらはなんと20世紀、昭和10年(1935年)の創建である。
一見平凡な印象の神社だが、山科、大石というキーワードを告げるだけで、年配の方なら誰でも連想する歴史ドラマがある。『忠臣蔵』だ。
だがそれも時代劇がナリを潜めて久しい最近はあまり取り上げられなくなった。昭和までは年末となれば必ずなんらかの『忠臣蔵』の映画なりドラマなりがテレビで放映されたものである。
それも可能な限り12月14日の、赤穂浪士討ち入りの日を選んだ。帯番組ならわざわざこの日にクライマックスや最終回が来るように放送日程が組まれたものである。
12月は8日の太平洋戦争開戦の日、クリスマスと並んで忘れてはならない大切な日だったのだ。
それほど日本人にとって『忠臣蔵』は、日本人の遺伝子レベルにまで深く浸透した物語だった。
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おおもとの“元禄赤穂事件”が起こったのは元禄14年(1701年)。
すぐに近松門左衛門など当時の作家たちが噂に敏感な庶民を当て込んで歌舞伎や浄瑠璃に取り上げ大人気を博したが、政権批判でもあるために幕府から睨まれ追われながらも、結果的に仇討ちのメインストーリーと、事件にまつわる人物たちが織り成すサイドストーリーで構成される『仮名手本忠臣蔵』というなかばフィクションと脚色を交えた連続長編オムニバス作品として完成するのは40年後の寛延元年(1748年)のこと。
大坂の人形浄瑠璃から火がついた忠臣蔵ブームはたちまち江戸へ飛び火して、ついには全国で知らない者の居ない演目となった。また、今のガンダムやスタートレックのように、のちの時代になってからも外伝やサイドストーリーも多く作られたという。『四谷怪談(1825年初演)』はその代表格だ。
さらに明治になって講談や浪曲はもちろん、活動写真───映画が生まれた大正・昭和に至ってはなにかといえば演目として最も人気があった忠臣蔵を元にした作品だらけになる。
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誰でも知っているので宣伝が楽だった事もあるし、学芸会や素人芝居でも取り上げやすかったと同時に、三国志ネタのように誤魔化しが効かない分、役者も忠臣蔵の誰を演じるかで格が決まったと言っても過言ではないだろう。
そういったついこの前まで一般常識だった事を、今の若い人に丸ごと説明しなければならないのは情けない限りだが、逆に詳しく知りたければ即座に検索するという手段もあるので、我々旧世代は課題を提示し続けることを怠ってはいけないと思う次第だ。
さて大石神社はその元禄きっての群像ヒーロー“赤穂浪士”のリーダーだった人物、大石内蔵助(くらのすけ)良雄を筆頭に“四十七士”を祀った宮だ。
この神社を創建するきっかけを作ったのは昭和初期に活躍した浪曲師:吉田大和之丞という人物。「忠臣蔵で儲けさせて戴いた」ことに感謝し、自らも出した多額の資金を元にして寄付金を募り熱心に創建のための運動をした…とは、大石神社内にある宝物殿にあった説明文より。
内蔵助を演じた歴代の俳優の写真額や吉田大和之丞氏の浪曲を録音した当時のレコードも展示してあった。記録的なミリオンセラーだったそうだ。
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そもそもこの神社が建っている場所は、今では路地のように細い道を南に辿ると見つかる『岩屋寺(いわやじ)』の境内の一部だったという。ちなみに岩屋寺の本堂ヨコにある木像堂には、四十七士の小さな木像や遺品が安置してあるのでぜひそちらにも参って戴きたい。大石神社と岩屋寺とはさして離れていないはずなのだが、歩いてみるとなかなか着かない。
てくてくと歩くこと数分、ようやく見つけた辻には立派な石碑、そしていかにも山寺といった雰囲気のなだらかな坂道が続いていて、ほんまにあるんかいなといぶかしみつつも昇ってゆくと、見かけに反して意外にゆるやかな坂である。
そろり、そろりと昇ってゆくと、その右手の斜面に公園が開けているのを見つける。もちろん公園といっても子供用の遊具のあるようなそれではない。ベンチなどがあるのでいわゆる“市民の憩いの場”的な公園なのだが、むしろ、夜中に訪れたらけっこう恐ろしげな立地に見える。 |
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とりあえず道からこの公園の奥の方を覗かせて頂いた。さらに十三重の塔の立派な石碑がそびえ立っている。討ち入り前の一年四ヶ月ばかり、娘のような年齢の内縁の妻・おかると共に内蔵助が住んだ屋敷の跡である。
公園の東側に立つと今でもそれなりに山科盆地が一望できる。当時は本当にひっそりとした山里だったようだ。
お家再興に一縷(いちる)の望みを抱きながらも、同時にそれが叶わない時のための赤穂藩残党総決起───といっても結局47名だけだったが───討ち入りの計画を胸に秘めた内蔵助が、日ごとに屋敷や庭から観た景色とは似ても似つかないだろうが、享年45歳だった彼はその時、どんな気持ちで日々を暮らしていたのかを考えると、同年配になった男として胸に迫るものがある。
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今ではひしめくように住宅が密集している様子しか見て取れないが、それでも都会の喧噪になれた身には実に閑静な街であることには違いない。そんなこの静かな街が最も賑わうのはもちろん12月14日の義士祭。
岩屋寺はこぢんまりしているが、この大石邸跡と先に見ていただいた大石神社の境内はけっこう広い。また神社の境内に至る参道もそれなりに距離もあり、ゆったりとしている。
だがその日ばかりは境内には所狭しと屋台がずらりと並び、老いも若きもこぞってやってくるし、近畿では年末の恒例ニュースの一つでもある。
内蔵助はもちろん、四十七士の扮装(あえてコスプレとは言うまい)に身を固めた男たちが市内を練り歩き、大石神社までの道中は人と喝采の渦に飲み込まれる様子が映し出され、年末も押し迫り、あと半月で一年が終わるのだという実感が湧く。
講談や映画の影響が大きく、かなりフィクションも交わってしまうので虚々実々ではあるが、日本人なら歴史の一ページとして、文化の一翼として『忠臣蔵』は押さえておくべきである。
大石神社ホームページ→■■■
http://www.ohishi-jinja.jp/index.html
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ところで、かねてより大石神社は閑静な住宅街を抜けたところにあったのだが、昨年十五年ぶりに訪れて驚いた。すぐそばに巨大なトンネルがジンベエザメよろしくあんぐりと口を明けていたのである。
これは『新十条トンネル』こと『阪神高速8号京都線』の出入り口で、伏見の稲荷山を東西に貫く全長2.7kmに及ぶ長大なものだ。ウィキに依れば開通は2008年6月。いまも2011年全線開通目指して整備工事中とある。
ただ、市バス等しか使わない筆者にはあまり縁がなさそうではあるが、伏見〜山科など、さらに立体的な散策プランが立てやすくなるとは思う。
阪神高速8号京都線ホームページ→■■■
http://www.kyoto.hanshin-exp.co.jp/a_about/a-1-1.html
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▼大石神社・岩屋寺付近の地図はこちらから▼
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