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 毎年、夏の終わり頃になると、どこに行けば筆者の望む“真っ赤っか”に出逢えるか?をシミュレーションしつつ地図をにらんでいたりするのだが、できる事なら全く知らない所にしたい、などと贅沢を考えてしまうのでなかなか見つからない。
 実際には、何度訪れても同じ表情などないのだが、どうもこの辺が欲張りでいけない。

 だが、視点を変え考え方を改めてみると、まさかの超人気スポットにも意外な“抜け道”があることに気づく。この時、地図を睨んでいてふと気づいた“抜け道”は、まさにそのままの“抜け道”を行く事だったのだ。
 とはいえ、えっちらおっちらと登るよりは、何も考えずに景色だけ観ながらえんえんと下る方が初心者には楽だと考えた結果、最初に書いたように、バスで三尾のうち最も奥の栂尾(とがのお)まで行き、槙尾(まきのお)、高雄(たかお)とあちこちウロウロとめぐりながら戻り、最後に高雄は神護寺の横合いから山道に逸れて、歩きで嵐山まで帰ることにした。

 京都駅からJRバスに乗り、嵐山パークウェイと名付けられた道路を通ってたどり着いたのは、いにしえの昔より京都の奥座敷と呼ばれてきた三尾(さんび)のひとつであり、もっとも奥に位置する、栂尾(とがのお)。
 筆者は自家用車に縁も興味もないので、どうしてもバス移動しか手段のないところは敬遠しがちである。まして“秋の三尾”なんて、今みたいに京都観光が全国的ブームになるはるか昔からマイカー族が怒濤のように押し寄せる所で、人混みが苦手な人間が休日に訪れるような所ではない。


 おまけに、こればかりはいつもの夕刻狙いで攻めるわけにもいかない。なぜならハイキング向きにきちんと整備された道路とはいえ、それなりに山あいなので、遅い時間で陽が暮れてしまえばさすがに歩いて戻る事は叶わないので、家路を急ぐ観光客でごったがえすバスの混み具合は想像を絶するからだ。
 ───なので、必然的にずっと避けてきた。むしろ、人の多さを想像するだけで、行きたくない場所でもあった。
 以前に訪れたのは、15年ほど前。某人生最大のイベント旅行として平日に休めたその時が最後であるが、平日でも修学旅行や団体旅行客など、さすがに紅葉シーズンはそれなりに人でいっぱいである。

 参考までに、これの撮影日は2008年11月15日。
 本当は2009年に記事にすべしだったのが、夏の暑さにかまけてハッと気づくと世間で言うところの『秋』になってしまって、リリースのタイミングを逸したために一年見送ったのである。
 近畿以外の世間さまがこの時期に合わせて旅の予定を立てられるとすれば、10月までに情報を提供しなければ意味を成しにくい事を毎年コロッと忘れてしまうのだ。
 私のささやかな取材費の足しにすべく、記事に付随した広告をクリックしていただくためにも、この事は私事ながら最重要課題なのである。

 バス停近くには、いわゆる“茶屋”が軒を連ねている。
 趣向を凝らしたお土産物も多く、ついうっかりと買い込んでしまいそうになるが、なにせ二本の足を互い違いに動かさねば、帰ることはおろか移動もできない事をおもんぱかれば、うかつに荷物を増やすわけにもいかないのが辛いところだ。

 で、同じバスに乗り合わせたうち、茶屋に興味を示さないお客様たちはそそくさと観光スポット目指して道を下り始めるのだが、筆者としては逆方向、さらに少しだけ北の方へと進むことをオススメしたい。


 手でそろりと撫でてみたくなるスギゴケのように穂先を滑らかに並べて植わっている北山杉、それに彩りを加える紅や橙のカエデ、ツタ…。こんなご褒美に出逢えるからだ。
 ここには載せていないが、まわりには人っ子一人いない。さきのバス停からもちろん、福井県小浜へ通じる鯖街道のひとつなので、こちら方面へのバスもあるが、乗ってしまえばこの風景も車窓の一瞬なので、むしろぜひこうして、三尾の本来の静けさと美しさをしげしげと味わってみて欲しいと思う次第だ。

 この川は『清滝川(きよたきがわ)』。三尾はこの川に沿って展開している。
 そしてこの水は下り下って、保津川に合流し、やがて嵐山にたどりつく。今回は、徒歩にして約2〜3時間の東海自然歩道を“抜け道”として、バス停の“清滝”までこの川に沿って歩くことで『ぶら旅』流のコース取りとしたいと考えた。
 とはいえ、せっかくココまで来たのだからと、まずはいわゆる“コース”に戻り、せっかくなので『高山寺(こうざんじ)』を目指す。

 由来などは例によって理解していない。だが、漫画家を目指したものならば、やはり知っておきたいのが世界史上初の漫画『鳥獣人物戯画』であり、それがあるのがここだ、ということだ。
 まあそれはどうせ見られても複製画であるし、絵ヅラなどは大体知っている。スゴイとは思うけど、拝んだところで絵が上手くなるものでもない。ちゃあんとチケットにもごく一部が載っているので、これで充分だ。
 なので、もうひとつの“ここが始点”とされているものを見に来たのである。

 それが、『鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から送られた種を植えた事で開かれた最初の茶園』である。棒読み状の転記なのは、筆者としては茶の花を見てみたかった、というのが本音で、由緒などは二の次だったからだ。
 茶園と言っても、囲いの中に椿やサザンカに似た地味な低木がおちこちに植わっているだけだ。

 とはいえ、ひとつひとつの花には、どこか惹かれる美しさがある。

 姿形からもお分かりのように、茶は椿の仲間だ。だが花にはまったく華やかさはなく、ときにその花びらの形はいびつでさえあり、その花の数さえもごく少なくて、カメラで切り取って絵にするのにも苦心する。しかしこれほど飾り気がないと、むしろ凜とした潔さに感動すら覚える。
 いつの日か、ささやかなひと鉢でいいから、ぜひ育ててみたいものだ。

 右の高札に『開山堂 明恵(みょうえ)上人』と書かれている。この前はカメラを構えた人も多く、高山寺の名物であるようだ。
 じつは筆者はずっと“たかやまでら”だと思っていたのだが、どうやら生駒にある宝山寺(ほうざんじ)と音が似ているため、無意識的に異なる読みを選択していたものらしい。
 考えてみれば、♪きょおと〜おおはら、さんぜんいん…で有名なデューク・エイセスの名曲『女ひとり』にちゃんと♪きょおと〜とがのお、こうざんじ♪…と唄っているのだ。まあ、どうでもいいことだが。

 しかし、いくらパッと見の色合いが美しくても、大勢の人が我先にとドヤドヤ、がやがや、カメラ付き携帯電話やデジイチで撮影ポイントを競っている時点で、その風景は“たんなる人混み”になってしまう。
 なので、筆者は早々に人の居ないところを求めて順路を次へと進む。


 ここは、さきの開山堂からすこし上がったところにある、高山寺の金堂のすぐそばの光景である。

 こちらは紅葉の美しい開山堂と異なり、地味なために観光客はほとんど足も止めずに次のスポットへと去ってゆく。
 おかげでご覧のように実に清々しいほどの風景である。

 いったいいつからそこに生えていたのか、いつからこんな森だったのか。
 鬱蒼と立ち並ぶ古杉に囲まれて、小さいが丹の色も鮮やかな祠がある。木漏れ日に照らされて輝かんばかりに美しい。
 足もとはと見れば、古杉から伸びた根上がりにまといつくように生える苔がまた美しい。


 これが重要文化財に指定されているという、金堂である。もっとも、重要文化財であろうが世界文化遺産だろうが、お題目などはともかく、筆者はこうした風情ある風景が大好きだ。
 しかしなんだろう。この、かぎりなくつまらない風景から漂う、なんともいえない空気感は。
 かたや苔むした地面。かたやいつから降り積もってるのか、文字通り山積みになっている杉の葉。そしてその間を、どこから流れてくるのか、山の水がつくった小川がよぎる。

 京都、というキーワードに求めるイメージは人それぞれだ。

 でも、きっとたいていの人はそこに心の安らぎを求めて、遠近から来ているはずだと思うのだが、何故かじっくり落ち着いて、そして貪欲にその空気感や世界に浸ろうとする人は少ないように思う。大きなお世話だろうが。
 まあ、どっかのキャンペーンの文句ではないが、京都に行きさえすれば満足できる部分があるのもたしかだ。
 とはいえ、せっかくはるばる訪れたのだ。
 たまには足もとから京都を楽しんでみても面白いでしょう、と提案したい。苔寺ばかりが苔を楽しむ寺ではない。京都は、土も風も京都の匂いがするのだ。

   《その弐》へつづく。

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