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 さんじょひがしやま
♪大学通り 流れる川 走る路面電車………

背の低い山を見て 君と僕の明日───

この街が好きさ 君がいるから

この街が好きさ 

君の微笑(ほほえみ)あるから───

 昔から京都をテーマにした歌はたくさんあるが、その中で筆者がもっとも好きなのがこの『街(まち)』という歌だ。そして上記はその三番の歌詞である。
 この歌は、日本フォーク界の始祖のひとり、高石ともやさんが1975年度の京都市民祭のテーマソングとして作られたものだが、その最大の魅力は、京都の地名はもちろん、固有名詞を一切入れずに作ってあることだ。

『街(まち)』(高石ともやとザ・ナターシャー・セブン - アルバム:Big Artist Best Collectionに収録。iTune Storeなら¥150で単曲のみで試聴および購入が可能。)

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 ここに出てくる路面電車とはもちろん日本最初の電車であり、今は失われてしまった京都市電のことだが、京の街を縫って走る路面電車は市電だけではない。
 京福電鉄は帷子ノ辻(かたびらのつじ)を支点にして嵐山と四条大宮、北野白梅町をすこしいびつな“んの字”型に結んで今も頑張っている。

 (左は在りし日の京都市電。筆者が高校生の時に撮影した写真である。この時からもう30年も前になるとは、なんと恐ろしいことだろうか。)


 いっぽう、1997年(平成9年)10月にあらたに開通した京都市営地下鉄東西線と一部相互乗り入れのために地下へ潜って地上から姿を消したのが京阪電鉄京津(けいしん)線である。

 この京津線、一部の路線は一般的な電車同様に専用線に入るのだが、それ以外は一般道路を自動車に混じって走る。ただし路面電車らしからぬ一般電車同様の高い床を持つ堂々たる車両で、しかもこれが二両連結で勾配のキツイ区間を轟々とモーター音を唸り独特の金属音を響かせながら練るように力強く走ってゆく様は本当に迫力があり、筆者も大好きだった。

 まあ、滋賀県側ではいまも路面電車として走る区間も残っているのだが、乗り入れ後にデビューしたハイカラすぎる車両デザインはどうも似合わないように思う。

(参考/Wikipedia:京阪京津線
 右の写真は鉄道模型のように見えるが実物。蹴上(けあげ)から御陵(みささぎ)へ向かう1990年頃の京津線

左の写真は当時の蹴上駅。バス停のような雰囲気で道のど真ん中の島状ホームで乗り降りするのだが、この幅が1mほどしかなかった上に、両側をけっこうクルマが通るのでかなり怖かった。

 この沿線には昔からの工芸品の店や、筆者のような世代には懐かしい格安&超健全な宿『東山ユース・ホステル(http://www.syukuhaku.jp/)』、一流割烹の『美濃吉』、そして今では『ウェスティン都ホテル京都』とややこしい名前になった歴史ある一流老舗ホテル、晩春のつつじ一般公開では大勢のおばちゃんたちで賑わう蹴上(けあげ)浄水場やこの“ぶら旅”でも紹介している『日向大神宮』がある。

 あいにく九条山あたりからは写真のように殺伐としたドライブウェイだけになってしまうので、疎水を遡るのでもない限りは電車に乗って山越えしてしまう方が賢明である。そちらの詳細は“ぶら旅/山科疎水編”をご参考に。

 今回の起点となる京阪三條───表題で『さんじょう』ではなく『さんじょ』としたのは、昔よく流れていた三条東山にある老舗日本人形店のCMソングでそう唄っていて、そのほうが京都らしくてしっくりくると思えた。
 ひっくりかえして東山三条というと京阪電車京津線の駅名という機がするから不思議なものだ───は、昔は京阪電車における京都側の始発終点駅であり、京阪鴨東(おうとう)線として出町柳まで延伸される以前は主にこのバスターミナルが東山でのハブとなって賑わい、ひっきりなしに鞍馬・八瀬・大原へ、四條河原町や祇園へと観光客を運んでいたものである。
 その当時でも、東へ少し入った三條東山〜蹴上への軽い上り坂にさしかかれば嘘のように三條界隈の喧噪から逃れた感がしたものだ。
 奥座敷というほど都心から離れてはいないが、そうした落ちつき感があったからこそ美濃吉や都ホテルをこしらえさせたのか、はたまた、それらがあったからこそこうした佇まいになったのかも知れない。

 それはともかく。賑やかに行き来していた電車が地上から消えてしまってかなり寂しくなった京阪三條駅〜東山三条〜蹴上間だが、今も東山三条あたりでは昔からの店ががんばっているのが嬉しい。

 実はこの記事はもともとその記事の序文だった。今回、ひさびさに書いたらいつも以上に長くなりすぎたので分割したということで………本編、

 余談ついでに、右で謝ってるじいさまは『高山彦九郎』。賑やかだった頃の京阪三条駅前のシンボルだった。この銅像は二代目で、初代は三條大橋のたもとにあって親しまれたそうだが、戦時中の金属供出令で失われた。
 で、この二代目、ながらく歩道橋の影にあって目立たなかったのだが、今は移転して日当たり良く目立つ場所にあるので「誰やこいつ」とお気づきの方も多いのではないか。

 上野国新田郡(笹沢左保原作、名匠・市川崑監督の時代劇、木枯し紋次郎の生まれ故郷でも知られる。当時は貧しい土地だったという)出身の勤王の志士で、不遇の中志を立て、やがてはるばる東海道を上り、三條大橋を渡ってきたところで通りすがりの町人に「天子のおわす方角はいずれか」と問い、御所の方角に向かって平伏したという故事を銅像にしたもの…なのだが、ホントは当時彼は十代の若者で、こんな東野英二郎(二代目水戸黄門)みたいなジサマではなかったという。
 なんでこんな超絶アレンジに及んだのかは不明らしいが、いつの世も妙な曲解をしたがるクリエイターがいるようだ。


▼京阪三条駅前〜東山三条付近の地図はこちらから▼