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 三条通りの坂を登り切ると、一段下がったところに見事な赤レンガ造りの建物が現れる。
 これがさきに書いた日本発の水力発電所、蹴上発電所である。
 ただしこれは第二期の建物だそうで、一期は今からちょうど120年前の1891年(明治24年)に運転を開始し、のちにバージョンアップ版としてこの二期が造られたのち、一期の建物は取りこぼされたとある。
 この二期は明治45年に稼働し始めてから昭和11年まで現役だったそうだ。 しかもその後は『昭和27年に京都大学が京都市より借用し、 原子核科学研究施設が設置された』とあり、さすが京都はレトロとフューチャーが見事に融和した都市であることが実感される。
 失礼ながら、こんな所で原子核科学研究とは、お釈迦様でも気がつくめぇ。…である。ちなみに今は第三期の発電所がここよりやや上流で、筆者が生まれた昭和36年から稼働しているので、疏水の水力エネルギーは今も不滅と言える。

 上の写真はインクラインの南側の末端、ここから舟が疏水へと進水し、いくつかのトンネルをくぐりながら琵琶湖へと行き来していた。
 その事に関してはブロードバンド一般化以前の記事のため、多少画像が小さめで申し訳ないが、『山科疏水』の記事をご覧戴きたい。そちらも見事な桜並木の名所である。できることなら本当に舟でたどりたいものだ。以前NHKが琵琶湖疏水の記念特番で実際にそれをやっていたのだが、羨ましい限りだった。

 それはともかく、『蹴上インクライン』を以前単独で記事にした頃はまだまだ知られてなかったが、今ではここもかなり訪れる人が増えた。朝の早いうちならともかく、昼近くになるともうゾロゾロ、大阪造幣局・桜の通り抜け状態である。
 とはいえ、ここは元々が線路わきの砂利道であり、人々はほぼ一方向に歩いて行くので混雑しているという雰囲気はあまりない。それに、砂利道の行進で結構ホコリっぽいためか、あの醜いブルーシートを敷いて花見をしようとする不埒な輩はいないのが幸いだ。

 インクラインを登り切った先には、池というか、かつてはるばる琵琶湖から疏水の水路を通って人や物資を運んできた船のための船着き場がある。
 ここに着いたときはもう昼近く。ここならホコリっぽくなく、落ち着いた雰囲気なので、池の近くの小高いところで家族連れが三々五々に弁当などを拡げていた。筆者もここで燃料を補給。

 ふと見ると、低いところには疏水の送水管が二本、反対に少し高いところには、誰にも気づかれることなく疎水工事における殉職者の碑文が静かに見下ろしていた。

 このごろ、ものがそこに在ることの所以ということをよく考える。
 たとえば先のインクラインのレール。
 あれがあそこにあると言うことは、要するにどこかで鉄鉱石を掘り出した人がいて、そこから鉄を精錬した人がいて、さらにそこから設計図に合わせて部品に形作った人がいて、またその設計図を描いた人がいて、それを現地で組み上げた人、そしてそれらをその時々において物を運んできた人が、ひたすら懸命に働いたからそこにあるということ。

 みんな、どんな人だったのだろうか…という事。

 考えたからといって所詮は意味のないくだらない妄想に過ぎない。考えようとなんだろうと答えが判るはずもなく、また判ったところでどうということもない。だが確かに、その人たちが居たからこそ、そこにそれは今も在る。
 しかも供養のための碑文がある。生命を失った人もいたことも事実だ。
 この世にある物すべて、誰かが何かはたらきかけたからこそ、そこにある。なんと尊いことだろうか。

 ここで船は水辺から金属製の頑丈な台車に乗せられ、さながら両生類が水辺から上がってくるようなノリで上陸したのであろうか。さらにケーブルカーよろしく、このインクラインと名付けられた400mほどの線路を下って岡崎の水路まで往復していたという。乗っても見物しても、さぞや面白いイベントの連続だったろう。
 ましてこの時のように桜の季節、ゴットンゴットンと上り下りするインクラインは夢のような光景だったに違いない。

 今は復元された真新しいレプリカの船が乗せられていて、金具が春の日に燦めいているが、どんな人たちが乗っていたのだろうかと考えながら、他の人たちに混じってザクザクと砂利を踏みつつ、インクラインの下、岡崎側のゴールに到着。

 この写真の奥、右手にある階段から琵琶湖疏水記念館へ。無料なので時間がある方はぜひ立ち寄られるといい。疏水の開発に関する話や、インクラインの往時を偲ばせるジオラマなども見ることができる。
 また、清潔なトイレもあるので利用される方も多い。
 ちなみに、真正面に見える白い建物は、京都市動物園だ。

 始めインクラインは道路を見下ろしていたのが、岡崎に着いたときにはご覧のように道よりも低い位置になっている。上の写真で屋根のようになっているのは歩道橋だ。

 運営されていた当時、舟は台車ごとこの先の池状になっている疏水へザンブと進水し、舟だけが浮力で台車から離れて自力でそのまま水路を進んでいったというわけだ。なんとダイナミックな乗り物であることか!
 経験のある方にしてみれば、某遊園地の水系イベントでのゴンドラの動きなどを思い起こしていただければその楽しさが想像できようというものだ。

 岡崎の船着き場はインクラインの疏水、永観堂からの川、そしてもう一本の疏水が流れ込んでいる。城の堀のようにひとつの広い流れとなった疏水は、やがて美術館、伝統工芸館などを巡って鴨川へと注ぐ。
 あいにくインクラインとは繋がっていないが、この“お堀”では当時を偲ばせる十国舟が観光用に運営されていて、桜の舞い散る頃などは被写体としても風情満点である。

 とはいえ、いずれインクラインを復活させて、季節限定であろうとも琵琶湖まで舟で行き交うことができるようにすればかなり人気のある観光名所になるに違いないと信じている。嵯峨野のトロッコ列車の大盛況を見れば想像できようというものだ。

 定番コースなら、ここから南禅寺へ抜けて水道橋などを目指すのだが、今回筆者の未体験ゾーンへの挑戦はそちらではない。
 先に書いた、“もう一本の疏水”こそがそれだ。
 哲学の道の傍らに流れる疏水とほぼ並行して流れていて、地図にもシッカリ描かれているにもかかわらず、観光地的にはなにひとつスポットがない、住民のための一般道であるために省みられることのない『普通の道』であるらしい。

 筆者はこの道があることだけは知っていたが、やはり盲点だったのだろう。まるで避けてでもいるように、この時までは意識さえしていなかった。

 ところで上の、おかめ桜とおぼしき桜は、インクラインの上の池近くの民家の庭先で咲いていたものである。背景に写っているのは安養寺に至る印の石灯籠と、石橋である。その先へずっと進めば、秋ネタの別記事で紹介している『日向大神宮』へと通じる。

 《桜渡り:その三へつづく》


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